2022年3月24日木曜日

『カガク力を強くする!』

元村有希

「科学・技術の成果の光ばかりに気を取られ、影の部分を見ようとしない人々を「文明社会の野蛮人」と名付けた人がいます。オルテガ・イ・ガセットは、『大衆の反逆』で「大衆ほど無責任で気まぐれでわがままな存在はいない」といいます。・・・ 文明社会に生きているというだけで文明人だと錯覚しているけれど、その文明に頼りきるうちに、人間が本来、身につけておくべき直感力や判断力、理性、忍耐力、羞恥心などが忘れ去られてしまっているのではないか。オルテガは、80年以上前に書いたこの本で警告を発したのです。」(p.22~p.25)

 この指摘は、単に最新機器に頼りすぎるなとか、カガクの仕組みに目を向けろとか、ものづくりの技術を身につけよとか言っているのではない。「無責任できまぐれでわがまま」であること、不平や不満をいうばかりで都合の悪いことには沈黙する態度に警告を発しているのだ。ガソリンが高い、電気代が高いなどと文句ばかりいっているから、原発の再稼働を許してしまう。併せて、核兵器の開発や温暖化を加速する社会システムなど、科学者や政治家による文明破壊の動きを見過ごさないで、これに抵抗する力を持たねばならないということだ。秋岡芳夫さんは『新和風のすすめ』でこんなことを書いている。「いまの日本には類猿人(るいえんじん)が増えている。類人猿(るいじんえん)も類猿人もバナナは好きなようだが、類猿人は買って食べ、類人猿は木に登って食べる。両方ともに自分で種をまいたり肥料をやったりしてバナナを作ろうという意識はまったくない、というところで共通している」と。科学・技術というレベル以前に、農作物も、道具ひとつもつくれない、つくろうとしない姿を自覚しなければならない。

(忙しくなってきたので、投稿はしばらくお休みに)

2022年3月23日水曜日

『逆襲される文明』

塩野七生

「想定しなかった事態に直面したときに、日本人はまだまだ弱い。事態の対処だけでなく、想定していなかった質問をされた場合の答え方、等々。それを眼にするたびに私は思う。日本人て何とまじめなのだろう。だが同時に心配になる。世界では、それも権力者ともなると、人が悪いほうが当たり前なのだから。戦術には、忍者の戦法もあるんですよ。それがユーモアでありアイロニーである。ユーモアで相手との間に距離を保ち、アイロニーで突くという戦法だ。」(p.80)

 アメリカ滞在中にたくさんのイベントに参加した。そこで行われるスピーチには、必ず観客を笑わせるジョークが入る。内容を聞かせるためには、まず心を掴まないといけないのだ。(寝ている生徒を怒る先生は、自分の話が退屈であることを認識しないといけない。)「ユーモア」と「アイロニー」と聞いて、千葉雅也さんの『勉強の哲学』を思い出した。アイロニーとは「ツッコミ」で、周りの当たり前に否定を向けること、ユーモアとは「ボケ」で、見方をズラして考えること。これらは、環境から自由になる思考スキルであると、千葉さんはいう。塩野さんが心配しているのは、「まじめ」にみえているのは、この環境(周囲の目)に縛られているのだよ、ということだろう。「人が悪い」という相手に飲まれることなく、すっと身をかわしたり、駆け引きを楽しんだり、いま風の「忍者戦法」を磨かねばならない。ボケとツッコミの得意な関西人ならなおさらに。

2022年3月22日火曜日

『世界を変えるSTEAM人材』

ヤング吉原麻里子・木島里江

「多様な領域で活躍するSTEAM人材たちですが、そこには共通するマインドセットを見いだせます。型にはまらない自由な発想(think out of the box)、スピード感をもって発想を行動に変えていく「ひとまずやってみる」(give it a try)精神、そして「失敗して前進する」(fail forward)という考え方が、STEAM人材を端的に捉えています。」(p.56)

 ある高校で、「総合的探究の時間」を「Thinking Design」と名付けて、一年間、ちょっと変わった「数学」の授業をした。「初めて見る問題でも自分で考えようとする力」「間違いを恐れないで他者と意見を語り合える力」をつけることを授業の目標とした。答えを言わない科学TV番組「考えるカラス」(NHK)に触発されて、勘違いしそうな、迷いそうな問題を、議論や実験を進めながら解決していった。まさに、「give it a try!」「fail forward!」の精神であったと共感する。教材づくりや授業の振り返りは、自転車操業の大忙しだったが、高校生の満足度は高かったのでほっとした。STEAM教育や主体的・対話的で深い学びには、こちらの仕掛けや熱意に答えてくれる「よい生徒たち」の驚きや笑顔が極めて重要。

2022年3月21日月曜日

『科学という考え方』

酒井邦嘉

「ケプラーとブラーエの出会いは、歴史的に見れば理論と実験を結びつける理想的なものであったが、二人の天才の関係は、ゴッホとゴーギャンと似て緊張状態が続いたという。ケプラーは次のように述べている。「ブラーエは最良の観測結果をもっており、いわば新しい建物を建てる資材を持っているわけです。ただ一つ、彼に不足しているのは、独自の設計図を持ち、このすべてを使いこなす建築家です。」」(p.83)

 設計図とは、科学的な着想・考え方のことで、建築家とは、これを論理的に組み立てる人のことだろう。緻密な分析や最先端の技術は、ビッグピクチャー(広い視野、将来展望)をもったデザイナーの発想や制作によって生きる。ブラーエは天動説にこだわっていたし、ケプラーはブラーエのデータがなければ仮説を実証することができなかった。資材を蓄え、資質を磨き、世界を見据え、未来をつくる。『すごい実験』の多田将さんは次のように言っていた。「科学の世界は、東急ハンズみたいのものです。その研究が何の役に立つかは置いておいて、ハンズの棚に並べるんです。そしたら、次の世代の学者が棚を見て、自分の役に立つものをピックアップしていきます。そうして作り上げたもの、それがたとえば、この携帯電話なんです。」科学の歴史では、すぐに役立ちそうにないものがよく役に立つ。「goodpenguin」での教材づくりと100均の棚の関係もこれに近いかも。

2022年3月19日土曜日

『リベラルアーツの学び』

芳沢光雄

「見直しで大切なことの一つに「疑う気持ちを強くもって文章を読む」ことがあると考えます。2006年の秋に「今の景気の拡大期間はいざなぎ景気を超えた」というニュースがありました。そのとき「いざなぎ景気」の年平均成長率が11.5%という報道と14.3%という報道の2つがあったのです。不思議に思って考えたところ、前者は相乗平均の発想で正しいものであり、後者は相加平均の発想で誤ったものであることが分かりました。」(p.126)

 という記述を読んだので、計算してみた。いざなぎ景気は、4年9ヶ月で67.8%の成長だったという。67.8を4.75年で単純に割ると、約14.3(%/年)になる、これが誤りの方の値。実際には、年平均成長率を x %として、(1+x/100)^4.75=1.678 となる x を求めればよいので、これを解くと、x≒11.51(%/年)となって、正しい値になった。四半期(3ヶ月)ごとに報告される成長率に合わせれば、(1+x/100)^19=1.678 として、x≒2.76(%/3ヶ月) なので、四半期毎に2.76%の成長が19期続いたことになる。もしこれがあと1年9ヶ月続いていたら、2倍(100%)の成長率になっていたことになる。(所得倍増を公約にしていた岸田首相に教えてあげたい。)「疑う気持ち」と併せて「やってみよう」という心がけも大切かと。

2022年3月18日金曜日

『学問の発見』

広中平祐

「トーマス・エジソンの研究所には貼り紙があって、「人間には悪い性格がある。考えないで済む方法がないかと一生懸命に考える」と書いてあった。研究の途中でわからないことがあったり必要なことがあると、解決方法がどこかの書物に書いてあるのではないかと次から次へと本を探し、一日時間をつぶしてしまうことがある。そのような研究態度を戒める言葉だった。まずは自分で考えるのだ。」(p.3~p.4)

 研究活動であれば先行研究や論文を下地にすることは大事なことでもある。しかし、もっと基本的な次元で、人の考えをインプットしすぎて、人の思考と自分の思考の区別がつかなくなる事態に陥る危険性を示唆しているように思う。事件や情勢やときにはゴシップでさえ、誰かが言った評価・評論を真に受けて、あたかも自分の意見であるかのようにアウトプットするさまは見苦しい。薄っぺらい、根っこのない意見でなく、多数派と異なるものであっても、あるいは同じであっても、「まずは自分で考え」たといえるものをもっておきたい。ショーペンハウエルは「読書は他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない」といっている。読書もまた、自分の中に取り込むだけ、聞き従うだけという態度を改めないと、発酵過程の乏しいお酒のように、文字通り、自らを「醸成」していくことはできない。

2022年3月17日木曜日

『コロナと生きる』

内田樹・岩田健太郎

「熊本地震では、避難所は人が多くて密集していました。「この状態を放置していたら、感染症が蔓延して危ないです。半分ぐらいの人をホテルに移動させましょう」と提言したんですが、県庁の人は「そんなのできるわけないですよ」と怒るんです。自分以外の誰かが得するなら、みんなで損をしたほうがマシだと考えるんですね。嫉妬を鎮めるためにサービスを均質化するということがほとんど自己目的化してきましたね。」(p.105~p.106)

 「なんであの人がホテルでこっちは避難所なのか説明しろ」なんて声が聞こえてきそうだ。危機的状況を脱することより、不公平感情を呼び込まないことを優先する社会なのだ。程度問題もあるけれど、公平な対応なんてありえないと考えた方がいい。そもそも何が「公平」かという判定もほぼ不可能だ。不公平を我慢して指示に従うことができる集団があるとすれば、それは日頃からリーダーとの信頼関係が築けているということだろう。「あの人がそこまでいうのだから仕方ない」「わかった、おれも一肌脱ごう」なんて、「内容」じゃなくて、やっぱり「人」なのだ。不信感が先に立てば、いくら一生懸命説明してもたぶんその言葉は伝わらない。

2022年3月16日水曜日

『コロナ後の世界を生きる』

村上陽一郎編
「「ウィズ」から捉える世界」 ロバート・キャンベル

「ソーシャル・ディスタンスは、今はまだ物理的な距離として考えられていますが、社会の中の自分自身の位置づけを知る、自分の居場所から他者との関係を見つめ直すことだとも捉えたい。一人ひとりの資質、意欲によって、自律的に能力を発揮できる社会をいかに整備できるか、そこが問われています。」
(p.110)

 アメリカで生活をしていたとき、よく親しみを込めてハグをした。照れくさくも、あなたとの関係を大事に思っている、という確認や約束であるように感じた。日本では、コロナに関係なく、ボディタッチはほとんどしない。距離をとることが相手を尊重することで、干渉しすぎてはいけないと、少なくとも私は無意識にそう思ってきた。そんな私だが、病院や施設や学校でクラスター感染が発生したときにこれを責める人たちがいることには強く違和感をもった。親身になって人のために働く場、ともに汗を流して喜び合う場では当たり前のこと、むしろ、そこにあるべき大切なつながりがあったことに誇りをもってほしいと思った。「クラスター(群れ)」という言葉が、ハグのできる仲間というような前向きな意味で使われる日を待ち望む。

2022年3月15日火曜日

『創造するということ』

続・中学生からの大学講義3 から
「日本のデザイン、その成り立ちと未来」 原研哉

「たとえば、水を張った水盤に桜の花びらを数枚散らすだけで、あたかも満開の桜の下にたたずんでいるように見立てる。これが「わび」の精神だ。そこには、神を呼び込むための「空っぽ」を運用する感性が息づいているのだ。「シンプル」というより「エンプティ」。何もないところに創造力を呼び込んで満たす。意味でびっしり埋めるのではなく、意味のない余白を上手に活用する。」(p.89~p.90)

 空っぽであることによって逆に豊かに満たされる。なんとも奥深い感性である。思い浮かべるのは、坂村真民さんの詩『からっぽ』。
 頭をからっぽにする/胃をからっぽにする/心をからっぽにする/
 そうすると/はいってくる すべてのものが/新鮮で 生き生きしている
この詩を繰り返し読んでいると、空っぽにするのもなかなか難しそうに思えてくる。何ももたないという生活、空っぽになればちゃんと必要なものが入ってくるという信頼、自分は何者でもないという哲学。私の実生活は「真逆」であるといわざるを得ない。でも、確かに、水盤に浮かぶ紅葉の一葉をみて美しいと感じ、お寺の鐘の空洞の響きに懐かしさを感じる。わびを感じとれるくらいの「隙間」を空けることならなんとかできるかな。

2022年3月14日月曜日

『歴史の読みかた』

続・中学生からの大学講義2 から
「日本文化の像を描く」 福嶋亮大

「歴史は永遠に未完成だと考えたのがカントです。彼は観察者、つまり「世界をウォッチする人」に重要な意味を認めた。たとえば、フランス革命にはロベスピエールなりサン=ジュストなりの登場人物が出てきますが、カントは、革命を完成させたのは彼ら主役ではなく、ウォッチャーであるまわりの大勢の観客だと言います。観客としての人間たちが、ある事件を目撃し、それについてひたすらコミュニケーションし続ける。それが人類の共同的な歴史なのです。」(p.177~p.178)

 当事者ではなく、「ウォッチャー」が時代を評価し、歴史のできごととしてその意味を決定する。かつて、日本が敗戦し、戦犯として裁かれた人たちは、誰も「私が戦争を始めた」とは言わなかった。「戦争に反対だったがそれを言い出せる雰囲気ではなかった」とみなが語った。戦争は、当事者にも責任がとれないし、勝ったとしても誰も英雄になれない。そして、大きな犠牲は「人類の共同的な歴史」として刻まれる。戦争や紛争の目撃者である私たちは、国を超えて協力し、これをとめなければならない。戦争の背景にある格差や資源や対立事項を含めて、人々の力でこれを止めることができたという「歴史」を記さねばならない。

2022年3月12日土曜日

『学ぶということ』

続・中学生からの大学講義1 から
「人の力を引き出す」 湯浅誠

「大きな災害が起きると、怪我をしたり財産を失ったりするのはもちろん、心にも被害を受けます。今回の東北太平洋沿岸部の高齢者たちにも、心のケアが必要でした。けれども「私は精神科医です。心が病んだ人は相談に来てください」とアナウンスしても誰も来てくれません。斉藤環さんは「血圧測定をします」と言ってみんなに来てもらいました。そして、わざと一番古いタイプの測定器を持って行ったのです。瞬間的に測定できる最新式の器械とちがい、どうしても二、三分の時間がかかります。その数分間に世間話をする。受け答えで気になった人がいれば、あとでゆっくり話を聞く。」(p.117~p.119)

 障がい者の兄をもつ湯浅さんは、子どもの頃、兄が車椅子姿を人に見られたくないというのに、堂々と車椅子を押して歩き、兄とけんかになったそうだ。そのことがずっと頭に残っていたという。障がい者の兄が引け目を感じない社会をつくるという信念が、いまの湯浅さんの活動に繋がっているのだろう。屋外で車椅子に乗る、車椅子を押すという経験は私にもある。見られている、迷惑をかけている、思い通りに動けないといった不自由さを、乗り手と押し手が共有する時間である。「血圧測定」のような、相手が自然に受け入れてくれるシチュエーションをつくるという工夫は、同じような不自由さやしんどさを知っている人でないとたぶん思いつかない。大きな災害があると「足湯ボランティア」がよく行われるそうである。「熱すぎませんか、温まってきましたか」のことばから始まる心の交流がそこに生まれるからだろう。

2022年3月11日金曜日

『生き抜く力を身につける』

中学生からの大学講義5 から
「〈若さの歴史〉を考える」 鵜飼哲

「両親の世代は、国が「タブラ・ラサ(白紙)」に戻るという経験をした。でもこれは、若者ががんばれば、まったく別の新しい国がつくれる、そういう希望を抱いていた時代だったともいえるのです。・・・ 私の世代は、「スチューデント・パワーの時代」でした。世界の至るところで学生運動が起きていました。「上の世代に対する不信感」は世界中にあったのです。でも、先行する世代に反発したからこそ、大人になって生きていくために必要な知識や考え方を学ぶことができたのだと思います。・・・ 皆さんは〈サバイバルの技術〉を幼少期から自力で身につける必要はありませんでした。これからは「見取り図のない時代」を生きていかなければなりません。」(p.182~p.188)

 「自主・自立」を目指す学校では、ある意味「サバイバル」な環境や壁となって立ちはだかる先生が必要になる。それは、「失敗」がとても大事だということを経験し、「一人では自立できない」ことを学ぶためである。自立した人というのは、自分一人で生きていける人のことではなく、自分が立っているところで、自分が生かされていることの意味を考えて、やるべきことをちゃんと実行する人のことだと思う。一人では自立できないというのは、人との関係の中にしか「自立」は存在しないからだ。「見取り図のない時代」というのは、豊かな社会に生きるがゆえの不安や不公平(格差)にもまれるということかもしれない。とすれば、自立は、自分の立ち位置を自分で変える(border areaに足を置く)ことができる力ともいえるのではないか。

2022年3月10日木曜日

『揺らぐ世界』

中学生からの大学講義4 から
「グローバルに考えるということ」 伊豫谷登士翁

 
「家族や共同体、国家など、これまで人がよりどころとしていたものに対する帰属意識が次第に薄れ、崩壊しつつある。そのような社会で問題をどのように捉え、自分をいかに表現していくのか。私自身、その疑問に答えられるわけではありませんが、常に自分に言い聞かせているのは、いろいろな考え方の境界(ボーダー)に自分を置くことで、新しいものの見方を発見していきたいということ。それがグローバルなものの考え方を身につける一つの方法なのではないかと思います。」(p.228)

 さまざまな領域の交差域(border)に立ってものごとを見るということ。「border」は本来、国境、境界線という意味だが、自分の中にあるさまざまな壁と捉えると、先入観(閉鎖的な思い)、内向き志向(限られた興味関心や限られた仲間)、安全志向(異言語・異文化との交流の敬遠)といったものもこれに入るだろう。正しいと思い込んでいるもの、居心地がよくて抜け出せないものを一度手放してみるとか、自分の立ち位置や価値観を敢えて崩してみてはどうだろう。世界の変化によって、そうせざるを得ない状況になってから慌てないように、自ら訓練し「森を見る力」を磨いておきたい。海外留学は、まさに国境を越えて目が開かれる機会となる。できれば感受性の豊かな若い時代にチャレンジすることをお勧めしたい。

2022年3月9日水曜日

『科学は未来をひらく』

中学生からの大学講義3 から
「社会の役に立つ数理科学」 西成活裕

「壁の落書きをなくすにはどうすればいいか? 海外で実施された画期的な解決法というのが「落書きをした人にお金をあげる」。噂を聞きつけてたくさんの人が集まって、前以上に落書きだらけになった。そこで、あげるお金を少しずつ減らしていって、最終的にはお金をあげないことにした。すると、誰も来なくなって落書きがなくなってしまった。これは、いたずら目的で来ていた者を、お金目的に変えさせたという点に勝因がある。」(p.146)

 渋滞現象を数学で解き明かす西成さんの話。落書きの話は、別の所でも聞いていたが何度聞いても面白い。こんな話もある。チンパンジーにパズルを与えると、彼らは喜んでそれに取り組む。パズルが解けたらバナナをあげるようにしたところ、チンパンジーは前にも増して一生懸命に解こうとする。ところが、バナナを与える前は、自分から取り組んでいたのに、バナナを与えるようになってからは、バナナが欲しいときにしかパズルを解かなくなったという。「遊び」が「労働」になってしまったわけだ。問題を全体から見る、物事の本質を捉えるというのは、なかなか高度な技術なのだ。

2022年3月8日火曜日

『考える方法』

中学生からの大学講義2 から
「それは、本当に「科学」なの?」 池内了

「科学には、いくつかの満たさねばならない要件がある。合理性、道理に適っていること。論理性、筋道が通っていること。実証性、実験や理論で証明できること。普遍性、質の違った事例にも適用できること。無私性、個人の意向や願望に左右されないこと。懐疑主義の必要性、疑義や批判を怠らないこと。そして、公有性、誰もが使えること。」(p.41~p.42)

 信用できる科学者は、科学の限界をきちんと述べる人、科学のいい所と弊害をきちんと告げる人であるとも池内さんは言っている。TVのニュースは事実を報道しているというけれど、それはすでに切り取られた情報だし、それを伝える人の思いが反映されたものでもある。限界や弊害について告知されても、報道や科学がどこまで真実に近いかどうか、誰もジャッジできない。満たさねばならない「要件」は、どれも必要条件であって十分条件ではないということだ。「科学」とは結果や理論のことではなくて、方法や過程や姿勢といったものを指すということなのか。「科学」を説明するだけでも、すでに「限界」がある。ただそうであっても、「科学者的」な振る舞いのできる人でありたいと思う。

2022年3月7日月曜日

『何のために「学ぶ」のか』

中学生からの大学講義1 から
「「賢くある」ということ」 鷲田清一

「結局私たちは「市民」ではなく「顧客」になってしまった。私たちは、自分たちの安心と安全のためにプロを育て「委託」するという道を開拓してきた。しかしその制度の中で暮らすうちに、自分が持つ技や能力を磨くことを忘れてしまった。自分で物事を決めて担うことができる市民ではなくなり、ただのサービスの顧客に成り下がったのだ。」(p.190)

 税金を払っているのだから、高い学費を払っているのに、といった台詞にはうんざりする。見返りを当たり前と考え、少しの損も許さないと目を光らせている印象を受ける。そうではなくて、自分も困っている、どうすればいいか一緒に考えてほしいと言えばいい。コミュニティーの中では、自分はたいてい顧客ではなくて、メンバーであるはずなのだ。苦労をともにしたメンバーであれば、親しみや誇りが芽生え、恩返しや恩送りをしたいという気持ちを連れてきてくれるはず。技や能力を磨くこと、敢えて苦労を引き受けることを思い出そう。そして「一生学び」であることを楽しみたいと思う。

2022年3月6日日曜日

『知の体力』

永田和宏

「どんな大学に入学しても、どんな賞を獲得しても、心から喜んでくれる人がいなければなんの意味も持たない。ほんのちょっとした自分の行為を心から褒めてくれる存在があるとき、自分がそれまでの自分とは違った輝きに包まれているのを感じることができる。・・・ 愛する人を失ったとき、それが痛切な痛みとして堪(こた)えるのは、その相手の前で輝いていた自分を失ったからなのでもある。」(p.219~p.220)

 以前、とある機関誌に書いた原稿。「・・・荒井由実の歌に「人ごみに流されて変わってゆく私を、あなたはときどき遠くでしかって、あなたは私の青春そのもの」とあります。正に、その人がいるから今の私の存在価値があるというのは、何ものにも代えがたい内発的動機といえるでしょう。高校や大学時代に、是非「青春そのもの」といえる人を見つけてくださいね。青春とは「無茶ができること、そして、応援してくれる仲間がいること」と読んだことがありますが、「無茶」も「仲間」も人から言われてやるもの、つくるものではないですよね。・・・」 愛する人がいるということは、自分という器の中に宝物をもっているということ。器そのものにではなく、宝物にこそ価値があり意味があるということに気づくことなんだろう。

2022年3月5日土曜日

『手づくりのアジール』

青木真兵

「見えるものだけを見る。わかることだけをわかる。現代はできる限り速いスピードで、これらを行うことが求められています。人間社会でうまくやっていくための能力はほとほどに、見えないものを見ようとすることが重要なのです。このような能力を帚木蓬生氏は「ネガティブ・ケイパビリティ」と呼びます。」(p.161~p.162)

 帚木さんは、ネガティブ・ケイパビリティを「宙吊り状態を支える力」と表現する。拙速に答えを出さずに宙ぶらりんでいることに耐えるという感じか。たいていのことはすぐに解決しないものと知りながら、白黒をつけたがる現代社会に順応している私がいる。一方で、「手づくり」好きの私は、ものをつくることに熱中し時間を忘れてよく怒られた。たくさんの失敗や修正を繰り返すその作業は、ある意味、宙ぶらりんかもしれない。耐えてる意識はないけれど。

2022年3月4日金曜日

『わからないまま考える』

山内史朗

「「こんなことをして何になるんだ」と思いながら、意味や目的のない作業に人間は従事する。・・・ 人生は繰り返せないから、と躊躇しているうちに、失敗を試してみることのできる時間も過ぎてしまって、失敗をするチャンスさえ失ってしまう。・・・ 他の道もあり得たが、私はこの道を自分の人生として選んだ、ということだ。」(p.39~p.46)

 正解を求め、失敗を恐れ、人との比較や過去の自分との比較をすることが習慣化してしまっている。そういえば、10年前に始めときゃよかったと思うかもしれないと、40歳になってスノーボードを始めたりしてたなあ。「習慣化」を逆手にとったわけだ。迷いや後悔なんて当たり前と考えよう。次の10年後の自分に、なんであのときやっとかへんかったんと言われないように、また新しいことを始めようか。

2022年3月3日木曜日

『生物はなぜ死ぬのか』

小林武彦

「生きているものは裏を返せば「死ぬもの」です。生と死、変化と選択の繰り返しの結果として、ヒトもこの地球に登場することができました。死があるおかげで進化し、存在しているのです。」(p.216)

 ターンオーバー(生まれかわり)こそが奇跡の星地球の魅力であると小林さんはいう。そんな風にいわれても、身近な人の死や自身の死は簡単に受け入れられない、と思ってしまう。感情豊かに発達してしまった脳のおかげで、悲しみと怖れをもち続けなければならないのだが、核兵器の緊張が迫る中、いまは、多様ないのちを育むこの地球の将来を守りたいと願う。

2022年3月2日水曜日

『仕事のお守り』

ミシマ社編

「mediaは、mediumの複数形で、原義は「媒介」ですよね。あくまで「媒介」です。どれだけやわらかに受け止め、気持ちよく届ける(伝える)ことができるか、です。・・・ 「自分のことを、ただ時間を通過させているだけの、流動的な存在なのだとお考えになればいいと思います。他人の色を受け入れて、初めて自分という価値があらわれてくるのです。(村上春樹)」(p.126~p.130)

 後半のことばは「思っていることを伝えられない」という人の悩みに、村上春樹さんが答えたものだ。教会のステンドグラスは、ガラスを通過したその光に美しさを感じとることができる。本当に伝えたいと思うものがあるときは、「自分」というものがその障害になってはいけない。日常をちゃんと受け止め、穏やかに振る舞えば、自分でも気づかない美しい光をともなって人に伝わると信じよう。

2022年3月1日火曜日

『人と数学のあいだ』

加藤 文元

「「それは、僕自身がそうだったから。自分が本を読んでいる時に、この作家は絶対に苦しい時間、寂しい時間、一人っきりの時間を過ごしたはずだという前提で読むんですよ。(吉田修一)」・・・ 孤独な時間が必要なのではないか。・・・ その人の出す「音色」に共鳴してくれる他者が必要だということです。」(p.92~p.104)

 人が人をリスペクトできるのは、相手が孤独だったり苦しかったりしたであろう時間を感じとれたときではないだろうか。安野光雅の絵画展に行ってきた。一枚の絵にかけた時間だけでなく、人生をかけて積み上げてこられた心のこもった「時間」というものを、絵の中に感じる。吹奏楽部の演奏会や野球部の試合にでかけて、いつも心が熱くなるのは、彼らのプレーの背景に、苦労や悩みとの闘いの時間を感じるからだ。そう、人の孤独な時間は「共鳴」を連れてくる。小さな音色が、共鳴によって、人の心を揺さぶってくるのだ。