学校の読書だよりへの寄稿 (2008.6~2009.3)
vol.1 2008年6月号 「森を見て木も見る」
「ほんのもり」のタイトルには、以前たしか3つの「本」が三角形に並んだ「森」の字が使われていた。なかなか気が利いている。たくさんの本に囲まれて、森林浴よろしくいっぱい知識を浴びようよ、という発案者の思いが伝わってくる。
ところが、日本では今や書籍は年間7億冊も発行されていて、森の中で迷子になったり、森に気をとられて木が見えなかったりすることがあるんじゃないかな。つまり、何を読んだらいいかわからない、じっくり読む余裕がない、という事態がでてきた。
中学生や高校生とはいえ、大人と変わらないハイスピードの日々。時間と気持ちをうまくコントロールしないと本当に大切なものを見落としてしまいかねない。大きな時代の流れを見据えて、しかも物事の本質をとらえることが求められている。
「物事の本質をしっかりととらえる」には訓練がいる。その最も優れた方法が「読書」だと私は考えている。姿勢と気持ちを整えて、作者と向かい合う時間。それは自分のペースで自分自身にも出会う時間。ある意味作者と2人きり、でもある意味たいへん孤独な時間だ。
懐かしい音楽を聴くとその時代を思い出すように、若い時代に読んだ本の記憶はやっぱりいつまでも自分の身に染みついている。懐かしい記憶に出会うとすごく心が安らぐように、読書の好きな人はたぶん心が豊かでつきあっていても安心感がある。
本校の中高生は何より読書好きであってほしい。「森」は図書室、「木」は1冊1冊の本だ。森の入り口には、司書さんや先生がいる。どんな本に感動したか、こんな本はないかなどと尋ねながら、ゆっくりと道案内をしてもらうといい。
vol.2 2008年7月号 「西の魔女が死んだ」
映画「西の魔女が死んだ」が上映されている。梨木香歩原作のこの物語を私は図書室の司書さんから薦められて2年前に読んでいて、この映画を楽しみにしていた。
不登校の主人公まいが、信州のおばあちゃんと、魔女修行と称して「何ごとも自分で決める」という生活をおくりながら成長していく物語。
映画の中のセリフは原作に忠実で、ことばをすごく大事にしている。高橋克実が演じる郵便屋さんは原作にないがけっこう自然な感じで微笑ましい。何よりも、おばあちゃん扮するサチ・パーカーの表情が豊かだ。表情を見ているだけで、ことばも気持ちも沁みるように伝わってくる。「魔女になるには時間が必要、あわててはいけないよ」との語りかけは私の心も落ち着かせてくれる。
おばあちゃんのことばは優しくまた芯が通っていてすごく安心できる。でもそれがつまづきとなってやがて離別のときがくる。お互いに相手の気持ちが痛いほど理解できているのに、いや互いに他を気づかうがゆえにかえって素直なことばが伝えられないことがあるのかもしれない。おばあちゃんの娘、つまり、まいの母も同じだったのだろう。
「自分で決めろっていうけれど、何だかうまく誘導されている気がする」というまいのことばは、私が教師をしているせいだろうか、おばあちゃんとともに私の心にも苦く残る。芯が通っていても人間(いや魔女だったっけ)、魔女であってもからだや心は傷つくし涙もためる。「たましいが離れましたよ」って伝えることが最も大事なことになった魔女の最後の2年間を思うとき、胸が支えて何も言えなくなる。
私もまた、取り返しのつかない過ちを犯していないか、それすら気づかずに歩んでいないか。魔女が繰り返してくれたことば「I know」は、私を包む神のことばにも聞こえる。
vol.3 2008年8月号 「気に入ったことばを書きとめる」
ショッピングがストレス解消だという人がいる。本屋さんであれこれと立ち読みしながら本定めをするのが大好きな私もこれと同類と思われているかもしれないけれど。そしてときどきソファのある喫茶店でゆっくりと本を読んで「贅沢な時間」を満喫する。たとえそれが500円の文庫本であっても、あるいは、好みの喫茶店がなくて公園の木陰で缶コーヒーを飲みながらでも、すっごく「贅沢」なのだ。
さて、読みたい本がいっぱいあるので、ついつい急いで読むことが多い私だけれど、気に入ったところに付箋を貼っておいて、読み終わったあとにその部分を読み直すようにしている。ときどき、気に入ったことばをノートやパソコンに記録しておいて、忘れるくらい時間がたってから読み直してみると、これがまた楽しい。
「朝読書」が全国的な広がりを見せていて、本校の中学生も取り組んでいる。「朝読書」の原則は、①みんなでやる、②毎日やる、③好きな本でよい、④ただ読むだけ、だそうだ。なるほど、感想文や記録を求めないことが長続きのコツなのかとも思う。けれど、中学○年生の時に、こんな本を読んだ、誰々の作品を読んだ、こんなことばが素敵だと思った、このセリフをどこかで使いたい、などと書いておくと、「蓄積」ができる。それはノートに記録が蓄積されるということではなくて、自分の中に「厚み」が生まれるということだ。心の「厚み」は「自信」になり、「自信」は新たな「挑戦心」を育てる。たいそうな感想記録はいらないし、読んだ本を本棚に並べて悦に入るのもいいと思う。だけど、「書く」ことで「気づく」ことがあるし、「変化」や「挑戦心」が意識できればなおさら結構だ。
まあ、好きな人と並んで歩くことも、本屋さんでの立ち読みも、気に入ったことばを書きとめることも、「どきどき感」や「贅沢感」が大切かもね。
vol.4 2008年9月号 「心の中の本棚」
『本棚』というタイトルの本がある。「有名作家のお部屋を拝見!」って感じの、ただ本棚ばかりを写したフルカラー写真集だ。縦向けにも横向けにも並べられた大小の本はまるで詰め込みパズルに見えるし、本棚に収まりきらず床に積まれた本の山は部屋全体を不法占拠している。
でも、壁一面の本に囲まれた部屋は私の憧れ、その写真は見ているだけで楽しい(私だけ?)。本の壁はポスターやクリスマスの飾り付けなどとは一味ちがった一種の芸術的演出と思われる(え、やっぱり私だけ?)。
そんな巨匠たちの本棚に比べると私のそれは寂しいばかり。だけど、少しずつ増えていく本の背表紙に、私なりの小さな達成感を感じたりする。
並んだ本は、ともに時間を共有した仲間であり、手を伸ばせばもう一度会話をする機会を待ってくれている先輩という感じでもある。
アイデアが豊富でもの知りな人を「引き出しが多い」なんて表現するけれど、むしろ、自分の心の中に「本棚」があって、たくさんの優しいことばが備わり、豊かなセンスが磨かれていくといいなあと思う。
vol.5 2008年10月号 「映画を見て泣く快感」
人前では絶対泣かなかった
悲しかったり、嬉しかったりしても、冷静に受けとめた
ところが、年をとったせいか
自分の無力さにうろたえたか
映画で泣いて、卒業式で泣いて、葬儀で泣いて
泣いて気づいたことがある
気持ちが楽になることがあるんだ
涙と一緒に胸のつかえが流れ出したような
弱くたっていいじゃないって
ナイーブでセンチメンタルな自分でもいいじゃない
何でも一人で抱え込まなくても
そんなに急いでスケジュールをこなさなくても
ときには恋をして、何にも手につかなくて
とりとめもない文章を綴っていてもいいじゃない
………
先日『パコと魔法の絵本』という映画を見た
いじわるな "大貫" が生まれて初めて涙を流す
涙の止め方が分からない彼は
いっぱい泣いたら止まるのだと教えてもらって
たくさんたくさん涙を流す
映画館では隣に座った小さな子が
『パコ』の映画ですすり泣いている
大きな声を出さないように我慢しながら泣いているその子の声に
胸が詰まって、また自然と涙がでてきた
vol.6 2008年11月号 「一粒で二度おいしい味わい」( 『あの空をおぼえてる』 )
今年の5月に公開された映画「あの空をおぼえてる」は私にとって衝撃的だった。10歳の英治と6歳の絵里奈が交通事故に遭い、絵里奈だけが死んでしまう。その悲しみに途方に暮れるばかりの両親を何とか元気づけようと、幼い英治が健気に振る舞う。そして、自分自身行き場のない思いを妹への手紙という形で綴りながらその死を受け入れていこうとする。この手紙に綴られた言葉は私の胸を鋭く突き刺した。
「お父さんはもう、ぼくらの写真はとることができない。どういう意味かわかるだろ。今はもうぼくしかいないんだ。松葉杖をついて、足にぶさいくなギプスをはめたぼくだけ。これじゃかっこいい写真はとれないよ。」
「ちっちゃいこどもは自分が楽しむことしか考えないけど、大きいこどもになるとほかの人のことだって考えるものなんだ。かわいい娘がいなくなったら、お父さんとお母さんがどれだけさびしがるかおまえは考えなかったんだ。ふたりを元気づけるのは、ぼくにはもうお手あげだ。」
この映画の原作は、Janet Lee Carey著「Wenny Has Wings」で、「あの空をおぼえてる」のタイトルで翻訳出版されている。原作では11歳の少年ウィルが7歳の妹のウィニーに宛てて書いた96通の手紙が淡々と並べられている。映画のような情景は見えにくく、映画の脚本家・監督の技には感嘆する。このような形式で書かれた本で思い出すのは、Daniel Keyes著「Flowers for Algernon」である。主人公が自分の手術前後の経過報告を日記のように書き続ける形式になっている。こちらもやっぱり日本で映画(ドラマ)化されている。「アルジャーノンに花束を」というタイトルでDVDを探してみてほしい。障害を持った青年が脳の手術を受けて天才的な頭脳を得て一時は幸せになるのだが実は悲しい結末が待っている(私の好きなドラマの一つでもある)。
原作と映画の両方を味わうと、その著者や監督の気持ちやこだわりが見えてくる。読書会や映画サークルでは、人ぞれぞれの感じ方が違っていて、ナルホドと感心させられたりする。時間をおいて読み直したらいつも新たな発見がある。同じテーマで複数の本を固め読みしたり、お気に入りの作家の作品をたくさん読むことで、そのテーマや作家の周辺の景色が見えてくる。
こんな風に、一つの作品をいろんな楽しみ方で味わってみるのもまたおもしろい。「一粒で二度おいしい」キャラメルのように。
vol.7 2008年12月号 「あなたの図書館のイメージは?」
「私学展」は毎年楽しみにしている。今年も京都府の私立中高生の美術・書道・工芸・写真のすばらしい作品に圧倒された。一つ一つの作品に注ぎ込まれた感性・情熱・時間は計り知れない。それは単にその作品に向かっていた時間だけでなく、その人が生きてきた精神的な深さをも感じさせる。本という作品もまた、一冊一冊に込められた、いや、1ページ毎、1文毎に込められた著者のまごころを感じたいと思った。
それと同時に、久しぶりに美術館に足を運んで、教会の礼拝堂のような厳かな空気に触れた。ある意味、非日常な場所が心地よい緊張感を与えてくれる。図書館もそうだ。
広い部屋、大きな机、整然と並んだ書架、張り詰めた空気、…。姿勢を正して本を読んだり、机の上に何冊もの本を積んで調べ物をしたり、隣に座った人がかっこよくて(かわいくて)気になったり、…。それは、普段とは違った気分、新しい自分を感じることが可能なスペースなのかもしれない。
でも、学校の図書室はもう少しリラックスできる。優しい司書さんがいて本探しの相談にのってくれたり、いつもの友だちが待ってくれていてほっとする。大きな机で勉強すると教室とは違ったやる気が湧いてくる。知的で、静かな心のコミュニケーションの場なのだ。
今年も残すところあとわずかとなった。冬休みは寒いこともあるが、自分自身の振り返りや決意が求められる区切りのとき、ちょっと身の引き締まる思いがする。まとまった時間にこれまで読んだことのないジャンルの本に挑戦するのも、新たな自分の発見につながるかもしれない。
本との出会いは新しい自分との出会い、本探しは生き方探し。本を読むには根気がいるし、あれもこれもと欲張っても一遍にたくさんを読むわけにはいかない。美術作品を作り上げるように、誠実に作品と向かい合うことで、自分自身の思いを確かめるような作業が読書活動なのかもしれない、と思う。
それではみなさん、HAPPY NEW YEAR! & HAPPY NEW YOUR LIFE!
vol.8 2009年1月号 「不易流行(ふえきりゅうこう)」~福岡伸一著『生物と無生物のあいだ』~
今回は「変わること」と「変わらないこと」をテーマにお話しします。
科学の進歩や社会の変化に伴って、つねに新しい知識や方法を手に入れることを私たちは要求されます。学校は、社会のニーズの多様化に対応してさまざまな改革が求められています。しかし、時代の変化に迎合するのでなく、私たち人間や学校にとって、変わらないもの、変えてはいけないというものがあります。
本校の建学の精神の一つ「清新」は、清々しさや、日々新しい気持ちで学習に向かう姿勢を表す言葉です。この言葉のもと、新しい未来を拓き、自らも新しく生きることによって、私たちは確かに大きな成長を遂げてきました。一方、「自主性・自立」、「奉仕・貢献」の姿勢は、「変えてはいけない」もの、本校の教育の根幹となるものとして、103年間揺らぐことなく受け継がれてきました。
はたして、「変わること」と「変わらないこと」、どちらが正しいのでしょうか。
みなさんは、「不易流行」という松尾芭蕉の言葉を知っていますか。「不易」は変わらないもの、変えてはいけないものということで、「不変の真理」を意味します。「流行」は変わるもの、変えていかなければならないものということで、「日々新たに生きる志」を表します。芭蕉は、この正反対の二つの言葉をくっつけて、「新しさを求めてたえず変化する流行性にこそ、永遠に変わることのない不易の本質があり、不易と流行とは根元において一つである」と説いています。
2008年のベストセラーになった『生物と無生物のあいだ』。本の帯には、「読み始めたら止まらない極上の科学ミステリー」と記されています。その中に、シェーンハイマーの実験が紹介されています。要約すると、食物として投与されたアミノ酸は、臓器や組織や骨や歯の内部で絶え間ない分解と合成を繰り返し、身体のあらゆる部位のタンパク質となって入れ替わる。そのスピードは高速であり、また体の隅々にまでおよぶので、半年もあれば、私たちは分子レベルですっかり別の体に入れ替わってしまう、というのです。そして、生命とは代謝の持続的変化であり、この変化こそが生命の真の姿である、と述べています。
激動の時代にあって「不変・普遍」の重要性を見極め、これを守るがために絶え間のない変化、新しいものへのチャレンジの心を持続させていかなければならない、という「哲学」を、私はこの本に紹介された実験結果から実感することになりました。
蛇足ですが、1月20日、アメリカではオバマ新大統領が誕生します。彼の演説のキーワードである「change」もまた、世界の平和と人類の幸福に立ち返るための「change」であることを期待しています。
vol.9 2009年2月号 「読書のコツ~末川博先生の場合」
「気朗らかにいつも心に太陽をもって」との額が今も図書室に飾られている。これは、立命館学園の名誉総長である末川博先生直筆によるもので、北大路に校舎があったときから本校の図書室に飾られていた。毎日登校時に目にするレリーフ「理想は高く 姿勢は低く 大地に足をふんまえて 一歩づつ前へ 前へと進もう」の言葉も末川先生によるものだ。
末川先生は、京都帝国大学法学部教授として主に民法を専門に研究され、法学に関する数多くの著書を執筆された。立命館大学学長として就任されたのが1945年、以降25年にわたり、本学の教育・研究・文化活動の推進と「平和と民主主義」の教学理念を確立してこられた。さて、末川先生の著書や投稿の中に、「読書のコツ」なるものがある。そのいくつかを集めたのでちょっと紹介しよう。(言葉は適当に切り貼りしているが、ご容赦を。)
・およそ、読書には三通りの方向がある。まず第一は、人間が教養を高めるというか、精神的な人格をみがくためにする読書。次に、私のように学問の研究をするためにする読書。もう一つは、趣味とか娯楽とかのため、人間の生活内容をうるおいのある豊かなものにする読書。
・好きなように好きなものを読めばよい。濫読をやれ。雑読をやれ。そしてその中で自分がよいと思ったものを読み、さらにそのなかで読書のコツを体得したらよかろう。読む経験を積み、読む習性を作ることがなにより肝要である。
・頭を集中しないで書物に向かっているのだったら、むしろ外へ出て遊んだ方がよろしい。頭を集中するということは、言い換えると、考えながら読み、読みながら考えるということだ。
・就職のために役に立つとか、いい点を取るために役に立つとかいったような、打算的な考え方ではなくて、役に立たぬ本を読み、役に立たぬ知識をじっくりと考えて身につけ、人間というものや社会というものについて深く省察をすることを学んでおきなさい。それこそが、ほんとうに役に立つことになると、私は考えておる。
・コマギレの寄せ木細工のような断片的な知識ではなくて、学問としてスジの通った体系化された知識を自分のものとするためには、書物を相手とし、自分自身も考えながら噛みしめていく姿勢がいちばん適切であり必要である。
末川先生の高校時代は「むさぼるように書物を読む時代」だったといいます。先生は「無茶苦茶な乱読」の中から自分流を見つけ出されたのでしょう。私の好きな言葉に「青春とは自分に無理をしてがんばること」というのがあります。「無茶」のできるときに一生懸命「無茶」をすることで人生の基盤が固まるのかもしれません。
vol.10 2009年3月号 「道に迷うことは道を知ること」
私はけっこう臆病な性格だと思う。おおよそ予測の立つ仕事しか引き受けない。どうしてもと頼まれたら入念な準備を経ないと本番を迎えられない。
もう15年以上も前になるが、友人のいるアメリカへ海外旅行に行ったとき、荷物が空港から出てこない、小さなホテルの部屋では火災報知器が鳴る、夜に不審な人が部屋のまわりをうろつく、とまあ、とんでもなく心細い体験をした。カタコト英語しか話せない私にはムボウな旅だった。
計画通りにことが運ばないことの不安が、こんなにも自分をうろたえさせるんだ、ということを改めて知った。自分の思いが相手に理解されない、最初の一歩の踏み出し方がわからない。そうなんだ、新しいことを始めたり、環境の異なるところに放り出されるというのは、とんでもなく大変なことなんだ。
「動けなくなったら、目を見開いてただ見るんだ。ずっと見ていると、そこは知った場所になる。知った場所になれば、どう動き出せばいいかがだんだんわかってくる。」
これは、『卒業旅行』(角田光代著)という短編小説の中に出てくる一節。ネパールへの卒業旅行でホテルから出ることのできなくなった一人の女性が、そこで出会った日本人男性から声をかけてもらったときのメッセージである。
時間をかけて景色を眺めているだけでいい、そうすれば自分の居場所ができる。… なるほど。
中学生になって小学校の教科書を見るとなんて易しかったんだと思い、高校生になって中学校の教科書を見ると何でこんなことがわからなかったんだろうと思う。まわりの景色が見慣れたものになると安心し、その穏やかな気持ちになるだけで今まで見えなかった解法の糸口が自然と見えてくることがある。
新しい学年、新しい学期の始まる季節。
まずは一歩前へ。そして前をしっかり見て、深呼吸。そしてゆっくりと歩きだす。
「道に迷うことは道を知ること」
(戸田智弘著『続・働く理由』によると、これはスワヒリ語のことわざだそうだ)
時間をかければ、見えないものが見えてくることがあるのだ。
みなさん、ファイトだよ。