「たとえば、水を張った水盤に桜の花びらを数枚散らすだけで、あたかも満開の桜の下にたたずんでいるように見立てる。これが「わび」の精神だ。そこには、神を呼び込むための「空っぽ」を運用する感性が息づいているのだ。「シンプル」というより「エンプティ」。何もないところに創造力を呼び込んで満たす。意味でびっしり埋めるのではなく、意味のない余白を上手に活用する。」(p.89~p.90)
空っぽであることによって逆に豊かに満たされる。なんとも奥深い感性である。思い浮かべるのは、坂村真民さんの詩『からっぽ』。
頭をからっぽにする/胃をからっぽにする/心をからっぽにする/
そうすると/はいってくる すべてのものが/新鮮で 生き生きしている
この詩を繰り返し読んでいると、空っぽにするのもなかなか難しそうに思えてくる。何ももたないという生活、空っぽになればちゃんと必要なものが入ってくるという信頼、自分は何者でもないという哲学。私の実生活は「真逆」であるといわざるを得ない。でも、確かに、水盤に浮かぶ紅葉の一葉をみて美しいと感じ、お寺の鐘の空洞の響きに懐かしさを感じる。わびを感じとれるくらいの「隙間」を空けることならなんとかできるかな。
0 件のコメント:
コメントを投稿