ほんのもり(2010年度)

 学校の読書だよりへの寄稿 (2010.4~2011.3)



 vol.21 2010年4月号 「本の魔力」~「ねむりのもりのはなし」長田弘~

 本や手紙には魔力がある。
 携帯メールや電話では届かない心のある部分に触れることができたりする。
 直接の対話ですらその領域に入れないことがあるのに。
 以前、親子で会話が成り立たない生徒がいて、
 先生にもなかなか心を開けずにいた。
 私は買ったばかりのある本をその子にあげたが、
 それから半年くらい過ぎてから、
 思い出したように私にも話をしてくれるようになった。
 本は先生のようにせっかちでなく、
 無理矢理に人の心に踏み込んでくることもない。
 河原の石がどれも丸いように、
 時間をかけてゆっくりと心の角を取り去ってくれる。
 あげた本には、長田弘がこんな詩を書いていた。
  いまはむかし あるところに
  あべこべの くにがあったんだ
  はれたひは どしゃぶりで
  あめのひは からりとはれていた
  みるときには めをつぶる
  めをあけても なにもみえない
  あたまは じめんにくっつけて
  あしで かんがえなくちゃいけない
 一見不可解なメッセージ、
 でも繰り返し読んでいたら、なんとなく感じるのだ。
 「足で考える」というのは、
 頭だけじゃなく全身で考えることだったり、
 大地の息づかいとつながっていると感じることだったり
 自分が立っているところをちゃんとわきまえることだったり、
 歩きながら、人との出会いを大切に思うことなのかもしれない、と。
 あの子はいまどうしているだろう。
 人からもらった本はなかなか読まないものだと思うが、
 何が起こるか分からない。
 「あべこべのくに」のように。



 vol.22 2010年5月号 「生き方の原点を探る」~「小ささ」の自覚と「宿命性」の自覚~

 ○○小学校ではモジュールタイムという短いけれど集中した時間があり、大きな声で詩を読んだりする。たとえば、坂村真民さんの『からっぽ』という詩だ。
  頭を からっぽにする
  胃を からっぽにする
  心を からっぽにする
  そうするとはいってくる すべてのものが 新鮮で 生き生きしている。
 からっぽにしなくちゃいけない、のでなく、からっぽでいいんだよ、からっぽがいいんだよ、という優しさがこの詩にはある。
 ところが、自分のことに照らしてみると、果たして、空っぽになりきれない自分がいることに気づいてしまう。あるいは、心の空腹感を、追われる忙しさや、現在の仕事上のポジションや、人間ってそんなもんさという白けたことばで、敢えて感じないようにしむけている。からっぽになれば、新鮮な空気が味わえたり、新しい自分を見いだせるのに、今の自分が否定されることや、出直しをすることの億劫(おっくう)さに、なんとなく怯(おび)える私がいる。
 この「溝」(たとえば、今の自分と新しい自分を隔てるもの)を跳び越える勇気がないということなんだろうか。
 最近、五木寛之の『親鸞』や大谷光真の『愚の力』などが評判になり、浄土真宗が注目されている。信仰のすすめというよりは、自分を素直に振り返らせてくれる本である。この『愚の力』のなかに「人間性」について書かれた次のような文がある。
 「罪悪の自覚、有限性の自覚、この自覚の上で「切なる生き方」をする、そういうことに対する気づきを育てていきたいという願いをこの言葉(人間性)に込めたのです」
 今や売れっ子の内田樹は『街場の教育論』の中で、次のように語っている。
 「私自身は宗教性ということをこんなふうに考えています。自分を無限に拡がる時間と空間の中のわずか一点にすぎないという、自分自身の「小ささ」の自覚、そして、それにもかかわらず宇宙開闢(かいびゃく)以来営々と続いてきたある連鎖の中の一つの環として自分がここにいるという「宿命性」の自覚。この二つだろうと思います」
 ついでにもう一つ。鷲田清一さんがトークセッションで語っていた次のような言葉。
 「中井久夫という精神科医がこんなふうに語っています。唯一の私、掛け替えのない私が「Unique I」。代わりもきくし、特別な存在でもない多くの中の一人としての私のあり方は「One of them」。「Unique I」であると同時に「One of them」であるという矛盾に安心して乗っかっていられるようになることが、人間として成熟するということなんだって言っています」
 やっぱり、2つの世界の間には溝があって、えいっと跳び越える勇気がいるんだろう。せめて気づかぬふりをしないで、溝の前で悩むことからは逃げないでおこう。これが私の生き方の原点。



 vol.23 2010年6月号 「人間的な厚みの魅力」~『日本人へ リーダー篇』塩野七生著~

 6月5日、京都国際会館にて「科学・技術フェスタ」が開かれた。ノーベル賞受賞者が4名も参加する大きなイベントだった。その中で、現在アメリカにおられる宇宙飛行士の山崎直子さんと会場が中継でつながれ、ディスカバリー号で国際宇宙ステーションの組み立てミッションに参加された経験などを映像を交えて報告された。小さい頃から星に興味を持ったことから宇宙工学を専攻し、仲間やクルーとのコミュニケーションを大事にしようと英語やロシア語を学ばれ、宇宙ステーションで披露された琴の演奏は小さい頃から親しんでこられたものと伺った。会場では高校生のいくつかの質問に誠実にまたクリアに回答される山崎さんに、圧倒的な人間的厚みを感じた。
 そう、今回はこの人間的な厚みについて触れてみたい。
 『ローマ人の物語』(全15巻)を書かれた塩野七生(しおのななみ)さんは、古代ローマの興亡の歴史を研究され、次のように語っておられる。
 「一流のミリタリー(軍人)は一流のシビリアン(文官)でもある。勇敢であるだけでは充分でない、人望があってもそれだけでは充分でない。たとえば、補給線の確保、優れた指揮官は、部下たちの腹具合や、その力を十全に発揮させるのに必要なすべてのものを補給することに注意を払っている。また、武力で解決することしか知らないのでは、一級の武将とはいえない。どうやれば良き味方を作れるか、という一級の外交官としての資質も求められる」
 すでにお気づきのように、このメッセージは軍人や武将に限られた話ではない。一流の世界では、一つの仕事があらゆる分野に連結しており、人格がその仕事に現れるというのだ。そして、一流の人は、相手にそのたいへんさを感じさせずに(おそらく無茶をした若い頃の多くの時間と経験を乗り越えて)、自然とにじみ出てくる魅力をもっている。
 仕事は、所属する会社の名前やその役職で優劣が決まるのではない。その仕事を通して、その人がどれだけ魅力的に活動しているか、どれだけ人や社会に影響を与えるような人間的な厚みを持っているかによって、その人の値打ちが測られるように思う。
 ならば簡単に手に入る仕事を選んでもいいんじゃない?というのはナンセンス。狭き門を自ら選び、自分を磨くことの挑戦心が大事なのはいうまでもない。責任ある社会人としての立ち位置を定めたら、必要とされているレベルを超えるサービスを提供しよう。相手の期待を圧倒的に超える「裏切り」が人を感動させるのだ。それが魅力というものだ。



 vol.24 2010年7月号 「手に入れたあとのやる気(Self-Innovation)」~『超訳 ニーチェの言葉』~

 たとえば、あこがれの中学校に入学できたとか、ずっとほしかったものが手に入ったとか、好きな人とめでたく結婚できたとか、目標を達成した人には大きな喜びが訪れる。おそらく願いを手に入れるまでに、焦りや悩みの混在する中でたいへんな努力があったに違いない。とはいえ、実現に至るまでの過程はつらいばかりともいえない。目標に向かっているときはさまざまな刺激があって退屈することがない。
 ところが、願いを叶えたあとはどうだろう。手に入れたものはつねに光り輝いているだろうか。手に入れたとたんに色あせたように感じたり、こんなはずじゃなかったなどと文句を言ったりする人がたぶんいっぱいいる。何がそうさせるのだろう。憧れが大き過ぎたのだろうか、相手が努力しないからだろうか。
 ニーチェはこんな風にいっている。
 「なかなか手に入らないものほど欲しくなる。ところが、いったん自分のものとなり、しばらく時間が経つと、つまらないもののように思えてくる。それは、手に入れたものに対して、自分の心が変化しないからだよ」と。 (うーん、なるほど)
 Self-Innovation(自己改革)というタイトルをつけたけれど、自分の居場所に飽きたり、一緒にいる仲間や家族に不満を感じるのは、居場所のせいじゃないし、他人の問題じゃないのだ。自分の心が変わらないから、もっと外の世界に身を投じてチャレンジしないから、現状に飽きてしまうことになる。
 こんな憂鬱は、なんとしても払拭せねばなるまい。 (でもどうやって)
 そう、私たちには夏休みがある。 (おーっ)
 夏休みは、まっさらのノートのように、自分流のやり方で自分を表現できるチャンスだ。書き込んだメッセージの中から新たな自分を見つけ出すことができるだろうし、夏休みというノートを書き終えたとき、記録に裏付けられた成長に絶対満足して欲しいと思う。
 クラブの試合や大会への出場、海外研修や家族旅行、本を読んだり日記をつけたり、早朝ランニングや英会話トレーニングを始めたり、いつもの環境じゃないことを楽しみ、いつもの自分じゃないことを喜ぶ。そんな冒険による「Self-Innovation」ができるのが夏休みなのだ。そうすることによって、今の自分の環境の良いところが見えてきて、居場所が再び輝きを取り戻すかもしれない。 (せば、やってみるか)
 ニーチェは、『ツァラトゥストラはかく語りき』でこんな風にも語っている。
 「すべての良い事柄は、遠回りの道を通って、目的へと近づいていく」と。                    
 冒険は未知の経験の連続。たくさんの経験を得るために、たくさんの遠回りをすることが、最もでっかい夢につながる道となる。



 vol.25 2010年9月号 「写真集を味わうという読書」~『世界一空が美しい大陸』~

 『世界一空が美しい大陸』とは、最近発刊された南極の写真集(武田康男著)である。24個の太陽が輪を描く白夜の写真(タイトルは「沈まない太陽」)とか、映画「パイレーツ・オブ・カリビアン/ワールド・エンド」で登場した「グリーン・フラッシュ」(太陽が沈む瞬間の緑色の閃光)の写真を始め、貴重な映像が詰まっていて、朝日新聞の書評にも紹介された。写真には丁寧な解説もついているので、科学読み物としてもおもしろい。一枚一枚の写真をコーヒーでも飲みながら時間をかけて(南極の昭和基地に遊びに来たペンギンがしっぽを振りながらのんびりと帰っていくくらいゆっくりと)味わいたい本である。
 この本を読みながら、いちばんに思い出したのは、星野道夫さんの『長い旅の途上』だった。星野さんは、アラスカを中心に自然や動物の写真を撮るカメラマンであり、作家でもある。「冬があるからこそかすかな春の訪れに感謝することができる。人の心もまた、暗黒の冬に、花々への想いをたっぷりと募らせている。」マイナス50℃の世界で一枚の写真を撮るために何日も孤独な夜を過ごした人だからこそのメッセージ。その著書は、厳しい自然とその中に暮らす人への優しいまなざしで溢れている。1996年、星野さんはカムチャッカでの取材中に熊に襲われ亡くなられたが、没後も全国で写真展が開かれたり、「Michio's Northern Dreamsシリーズ」などの写真集が発刊されている。
 最近出会ったもう一冊の写真集は『宙(そら)の名前』(林完次著)。まえがきに、「歳時記風天体図鑑」との断りがあるので、写真集と呼ぶのは相応しくないかも。これは写真の美しさ以上に、古くからの月や星空の呼び名を集め、その由来や関連する和歌や神話を紹介していて、まさに時間的にも空間的にも、悠久の世界に誘(いざな)われる。たとえば、十六夜(いざよい)の月とは、十五夜よりもおよそ50分遅く、いざよい(ためらい)ながら上る月だからそのように呼ばれているとか。
 最近は、デジカメの普及とともに、素人でもプロ顔負けのショットを撮影できるようになってきた。写真に添えて、詩やエッセイを綴ることで、オリジナルの写真集ができあがる。みなさんもチャレンジしてみてはどうだろう。そうそう、私が大学生の頃、「毎日グラフ」に日本の自然を撮した写真と短いエッセイが連載され、それが単行本として出版された。串田孫一さんの『光の神話』である。すでに絶版だそうだが、こんなすてきな本が出せたらなあ、というのが若き日の私の夢だった。懐かしいなあ。



 vol.26 2010年10月号 「手帳替えの季節に、新しい試みを」~焼け石に水でもいいではないか 谷昌恒~

 本屋さんに手帳コーナーが設けられると、何となく年末の気ぜわしさを感じてしまう。だけど、真っ新の手帳にペンを落とすときの「リセット感」が好きで、いつも10月初めには新しい手帳を手に入れる。(ちなみに私はお決まりの手帳をネットで買うので、本屋さんでの手帳探しはしないけど。)
 手帳に書き込むのは、予定や備忘メモだけではない。気に入った言葉を書き留めておくと、自分の歩んできた足跡が見えるので、長い目で自分を振り返ることができる。ちょっとかっこよく言えば、「自分の哲学」が見える。
 大学生のときは、「私たちの人生は、私たちが費やした努力だけの価値がある」フランソワ・モーリアック。
 教員になってすぐは、「大地や人間や神から、美しさ、喜び、勇気、崇高さ、力などを感じることができるかぎり、その人は若いのだ」サミュエル・ウルマン。
 教員を続ける中では、「焼け石に水でもいいではないか。そこに火傷を負うた子がいる限り、水をかけ続けていなければならない」谷昌恒。
 などと書かれている。
 先日「総合的な学習の時間」の取り組みで職業インタビューを引き受けたとき、「先生の座右の銘」を教えてくださいと言われて、この谷先生の「焼け石に水でもいいではないか」という言葉を思わず応えていた。応えながら、自分を再発見する思いがした。大人になってちゃんと自分と向き合っていないこと、手帳に書いてなかったら何も応えられなかったであろうことなどを深く反省。
 インタビューでは、「なぜ先生になったのか」「一番嬉しかったことは」「一番つらかったことは」など、容赦ない質問攻めに遭った。私にとってこのような問いは「あなたは何のために働いているのか」「あなたの存在の意味は何か」に等しい質問でもある。どんな風に応えたかはもう覚えていないけれど、あとで感じたのは、高校生は彼自身の「生きる意味」や「存在価値」を求めていたのではないか、ということ。
 手帳に書かれた上記のような遍歴を見て、今さらながらインタビューに応えるとすると、「○○だから、先生になりました」という答えを見いだせる自分はいなくて、「たとえ非力だとしても、あるいは、社会経験が未熟であっても、子どもたちと一緒に学びながら成長すればよい」とか「たとえ焼け石に水と言われても、目の前のやれることをやろうという覚悟をもつことが大事」というような、「たとえ○○だとしても哲学」が私らしい生き方なのかもしれないと気づいた次第。(こんな回答でもいいかなあ。)
 谷昌恒先生は、北海道家庭学校(児童自立支援施設)の校長をつとめられた教育者で、多くの著書がある。私は、大学生のときに、『いま教育に欠けているもの』(谷昌恒著、岩波ブックレット)を採りあげた読書会に参加したことがある。そこで、「ひとりを生かすこと」の重さ、自立支援にすべてを捧げる先生の情熱に、大きな衝撃を受けた。まさに、私の人生を変えた一冊であった。(いまは絶版で入手困難とのこと。)
 手帳替えの季節。新しい手帳に、自分のお気に入りの言葉を書くとか、近未来の目標を書くとか、「新しい試み」をしてみてはどうだろう。たかが本の一節、マンガの一セリフであっても、常に持ち歩く手帳の言葉は、いつか心にジワッと効いてくる応援メッセージになると思う。



 vol.27 2010年11月号 「永遠の真実と「アイ」の世界」~ 『博士の愛した数式』 小川洋子著 ~

 「さあここに、直線を引いてごらん。… そうだ。それは直線だ。君は直線の定義を正しく理解している。しかし考えてみてごらん。君が書いた直線には始まりと終わりがあるね。更に、どんなに鋭利なナイフで入念に尖らせたとしても鉛筆の芯には太さがある。つまり、現実の紙に、本物の直線を描くことは不可能なのだ。… 真実の直線はどこにあるか。それはここにしかない」博士は自分の胸に手を当てた。「物質にも自然現象にも感情にも左右されない、永遠の真実は、目には見えないのだ」
 これは、『博士の愛した数式』(小川洋子著)の一節だ。事故で記憶の続かなくなった博士と、博士宅に雇われた家政婦とその息子が、数学の世界に触れながら、心を通わせていく物語。映画では、そのシチュエーションが異なるものの、やはりこの直線の話が登場する。
 原作での「直線の話」は、家政婦がミスを犯して解雇され沈んでいたときに、博士を思い出すシーンとして描かれる。「目に見えない世界が、目に見える世界を支えているという実感が必要だった」という家政婦の告白は、たとえば、失恋をしたときや誰にも理解されないとき、人は誰しも真っ白な立ち位置に戻って、代用品ではない「永遠の真実」を求めるということを教えてくれる。
 「ものごとはね、心で見なくてはよく見えない。いちばんたいせつなことは、目に見えない」これは、『星の王子さま』にでてくるキツネのことば。
 「砂漠が美しいのは、どこかに井戸を、ひとつかくしているからだね」「そうだね。砂漠を美しくしているものは、目には見えないね」
 「数学」も「哲学」も純粋な真実を求めるのだ。
 さて、ここからはおまけ。
 『博士の愛した数式』にでてくる博士のお気に入りの数式とは、「e^iπ+1=0」というオイラーの公式と呼ばれているもので、一般形は、「e^iθ=cosθ+i sinθ」である。
 この中に含まれるiは、i=√(-1) で定義され、虚数単位と呼ばれており、eは、ネイピア数(自然対数の底)と呼ばれる定数で約2.718の値をとる。
 そこで、ちょっと面白い問題をひとつ。「虚数iを2つ組み合わせて、正の実数にするためにはどうすればよいか。」
① i+i=2i より、足し算では、虚数の範疇から抜け出せない。
② i-i=0 より、引き算では、無にしかならない。
③ i×i=-1 より、かけ算では、マイナスになってしまう。
④ i÷i=1 より、割り算では実数にはなるが、これは、iとiが同じものであることを示しているに過ぎない。
⑤ そこで、i^ i(アイのアイ乗)を考えてみる。オイラーの公式を使うと、i^ i の計算が可能になる。すなわち、「e^iθ=cosθ+i sinθ」に対して、
 θ=π/2 を代入すると、e^(π/2  i)=cos π/2+i sin π/2=i
 さらに、両辺を i 乗すると、i^( i)=e^(-π/2)≒ 2.718^(-1.571)≒0.2079
 おお、ついに実数になった! すなわち、男と女の愛は、2人の世界で足したり掛けたりしても実を結ばない(実数にならない)が、次元を越えた愛情(アイ乗)に包まれる(神の祝福を受ける?)ことによって、実を結ぶことができるのだ。
 そう、数学においても「アイ」の世界は深いのだ。



 vol.28 2010年12月号 「心温まる2011年へ」~『空の上で本当にあった心温まる物語』三枝理枝子著~

 ANA松山便でのこと。くつろいだ雰囲気の機内が赤ちゃんの泣き声で一変。若い母親は客室後方の空きスペースに移って、子守唄を歌ったり、あやしたり、懸命になだめるも一向に泣き止みません。乗客の表情は厳しく、機内は険悪なムードが漂い、CA(キャビンアテンダント)も困り果てていたところ、ご婦人のお客さんが近寄ってきました。「ちょっと抱っこさせてね」と言って、赤ちゃんの頬を自分の胸にぎゅっと押しつけて子守唄を歌い始められました。2、3分たって、赤ちゃんはなかなか泣き止まないのですが、周りのお客さんの表情が変わってきます。その子守唄にみなが聞き入って、険悪なムードは、いつしか和やかな雰囲気に包まれ、いつの間にか赤ちゃんもすやすや眠りにつきました。(要約)
 ANA元CA三枝理枝子さんは『空の上で本当にあった心温まる物語』で、このような体験談をいくつか紹介されている。
 子守唄を歌うという行為は、私にはとてもできない。それどころか、赤ちゃんの泣き声に何とかしろよと文句を言ったり、不愉快な表情をしたかもしれない。何か問題が発生すると、相手を追い込んで自分の立場を守ろうとする自分がいる。子守唄の婦人は、赤ちゃんをあやしながら、実は大人の心を揺さぶり、心温まる行為は日常の中にあるということを思い出させてくれた。
 そう、身の回りの出来事を肯定的に受け止める心と、何かお手伝いしたいという素直な思いと、すぐに行動に移すことのできるフットワークの軽さが、私には欠けている。
 肯定的な受け止めという点で思い出すのは、「最近の若者は」なんて批判的に語るTV評論家が多い中、「今の若者は、創造的で、溌剌としていて、挑戦的だ。大人の目には危なっかしく見えても、私は大いに期待し、前向きに捉えている」と語ったある国の政治家がいた。視点が違うと、こうも新鮮で、前向きな気持ちにさせてくれるものなのか、と驚いたことがある。
 心温まる話をもうひとつ。こちらは、『思いやりのこころ』(木村耕一著)から。
 「子供が大きくなったら、親子3人でディズニーランドへ行こうと、楽しみにしていました。とうとう実現しませんでしたが、一周忌の今日、せめて、私たちの心の中に生きている娘をディズニーランドへ連れていってやりたいと思ったのです。本当に娘が生きていたら、ここで一緒にお子様ランチを食べたんだな、と思うと、つい注文したくなって…」
 アルバイトの青年は、笑顔に戻っていました。
 「お子様ランチのご注文を承りました。ご家族の皆様、どうぞ、こちらへ」
と言って、この夫婦に、2人用のテーブルから4人がけの家族テーブルへ移動してもらい、子供用のイスまで持ってきたのです。
 「では、お子様はこちらに」
 まるで子供が生きているかのように小さなイスへ導きました。
 まもなく運ばれてきたのは、3人分のお子様ランチでした。
 「ご家族で、ゆっくりお楽しみください」
 アルバイトの青年は笑顔で去っていきました。



 vol.29 2011年1月号 「京都の水撒き」~『京都の平熱』鷲田清一著と『一刀斎、最後の戯言』森毅著

 以前の「ほんのもり」で、朝のランニング中に、偶然ラジオから鷲田清一先生(大阪大学総長)の声が聞こえてきてびっくりしたという話を書いた。実は、このランニングの際、先生のご自宅の前を毎日通っていたことをあとで知って、二重にびっくり。まさかご近所の方だったとは。
 さて、京都は、歴史名所や美味しい店や雑貨屋を紹介した本、いわゆる情報誌の溢れる人気の街である。その中で、『京都の平熱』は少し異色だ。鷲田先生が、ご専門である「哲学」から離れて、普段着のような口調で語られる「京都考」。先生によれば、京都を「古都」と称するのは相応しくなく、京都タワーなどを引き合いに、京都人ほど「きわもの好き」「新しもん好き」は他にないと評される。
 また、「限界(リミット)が形象化されると、そこに厚い文化が生まれる」として、京都の「着倒れ」を紹介。飾りの極みの舞妓さんから、あらゆる飾りを削ぎ落とした修行僧まで、服装の両極端が見える形で提示される街だからこそ、「服装文化に自由度が広がった」のだそうだ。
 面白いのは、家の前の水撒きについて。自分の家を冷やすだけでなく、共同の生活の場所をきれいに、通りすがりの人にも涼んでもらおうと行うのだが、隣の家の前まで撒くと「お節介」、自分の家の前しか撒かないと「けち」となる、という話。
 実は、この水撒きの話、私は森毅(もりつよし)先生からも聞いていた。森先生は、長く京都大学の数学教授を務められた方で、昨年夏に亡くなられた。私は大学時代に先生の授業を受けたが、思いつきで授業を展開される方だというのが印象だった(ちょっと失礼じゃない? でも、私は慕っていたのだ)。森先生は水撒きについて、こんな風に語られた。大阪だと世話やきのおばあちゃんがまわりの家の前まで撒き、東京だと自分の責任のところだけきれいにして他人の領域には立ち入らない。それが京都だと「ついはずみの気分で、隣にちょっとだけ水を撒いてしまう」というのだ。それも、その時々の隣との関係性で、その境界領域が揺らぐそうな。
 これが本音と建て前の二重性といわれるゆえんなのだろう。京都生まれ、京都育ちの私には、この水撒きの「具合」がなんともよく分かる。本音が見えないとか、話が遠回りだとかおっしゃる地方の方には、それは、京都人の気遣いでもあり、よい行いは隠れてすべきという奥ゆかしさなんですよ、と弁明したい。
 いずれにせよ、京都にお住まいのみなさんは、澄んだ目で、我が街を振り返り、十数年培ってきた「感覚」と「生き方」を分析してみてはいかがだろう? その上で、新たなものを取り入れる「新しもん好き」の京都人らしさを磨いてみては?
 「価値のあるものを買うのではなく、自分で価値が作れる人間は強い」 これは、先日見た映画で出会ったお気に入りのセリフ。なんやかんやいわれても、長い歴史の中で、文化を紡ぎ、「価値」を創造してきた「京都人」の気丈さに、みなさんはもっともっと自信をもってよいのだよ。



 vol.30 2011年2月号 「本のなかにある「いい時間」」~『空と樹と』(長田弘著)~

 恵文社一乗寺店をはじめて訪ねた。
 はじめてなのに、懐かしい雰囲気があって、本屋さんというよりは、図書館に来たような感じ。ちょっとした緊張感と、知性をくすぐる空気を味わう。
 なぜだろう。お気に入りの作家の著書が並んでいるから? 生活や思索や芸術など、セレクトジャンルがシンプルだから? 懐かしい音楽に心を開くように、すぐに馴染んでしまった。
 実はここだけの話(とはいっても、紙面にさらされちゃうのだが)、私が最もやりたかった仕事は、教師ではなかった。当時まだ一般的でなかったクラフトアートの世界に憧れていた。絵を描いたり、版画をつくったり、特に木製の玩具をつくるのが好きで、そんな仕事をしたいと思っていた。そして、小説を読んだり、数学パズルを解いたり、美味しい珈琲を淹れたり、美術館をまわったり、どちらかというとゆったりとした時間を過ごすのが好きだった(今は正反対の、とても忙(せわ)しい毎日を過ごしている)。
 そんな私が恵文社を訪れた。なんとも私のやりたかったことを沸々と思い出させてくれる仕掛けが満載で、困った。「困った」というのは、今抱えている仕事に集中できなくなりそうな引力を感じたからだ(受験生の恋のように)。
 恵文社一乗寺店の店長である堀部篤史さんは、本校の卒業生だ。『コーヒーテーブル・ブックス』、『本を開いてあの頃へ』、『本屋の窓からのぞいた京都』などの著書がある。最近は雑誌などにもよく登場されている売れっ子だ。私が恵文社を訪れた日、彼は非番にも関わらず店に立ち寄られ、運良く遭遇することができた。忙しそうだが、控えめで誠実な人柄は変わらない。「2月の私学図書館協議会でのお話を楽しみにしています」とだけ伝えた。
 さて、今回の本の紹介は、長田弘の著書。彼は、読書について、こんな風に語っている。「いい本というのは、そのなかに「いい時間」があるような本です。読書といういとなみがわたしたちのあいだでのこしてきたもの、のこしているものは、本のもっているその「いい時間」の感覚です」と(『読書からはじまる』長田弘著)。
 そして、もうひとつ。恵文社で見つけた『空と樹と』(長田弘著)。まるで恵文社での「いい時間」を象徴するかのようなことばだなあと思ったので紹介したい(実は「あとがき」なんだけど)。ゆっくり読んで、ゆったりと余韻を味わって。
  樹を見ることは、樹を見上げることだった。
  樹を見上げることは、樹の下に立ちどまることだった。
  樹の下に立ちどまることは、時間の中に立ちどまることだった。
  時間のなかに立ちどまることは、黙ることだった。
  黙ることは、聴くことだった。
  聴くとは、樹のことばを聴くことだった。
  樹のことばを聴くことが、樹を見ることだった。



 vol.31 2011年3月号 「目標と習慣と自信」~本は人によって読まれ、人は本によってつくられる~

 『1000冊読む!読書術』(轡田隆史著)のまえがきはこんな風だ。
 「考えるには、まず多くの人びとの考えに接しなければならない。自分ひとりで考えられることなんか、タカが知れてる。」なかなか挑発的な文章である。
 「自信なるものは、ボタモチのように棚から落ちてきはしない。読むことによって人類の過去と未来につながっているというほんとうの意味での自信が生まれる。」なるほど、自信の源は読書というわけだ。
 「1000冊読むことにどんな意味があるか答えをもたない。しかし、自信とは、わからないことだらけを自覚することから生まれる力である。」読書家としての文字通り「自信」に溢れたことばである。
 たくさん読めばよいとは思わない。けれども、本について語るにはまず1000冊読破。これを私の目標にして6年目、ようやくゴールが見えてきた。昔から記憶力が弱く、読んだ本に何が書いてあったか、時間が経つとすぐに忘れてしまう。だから、気に入ったところには付箋を貼っておいて、あとでまとめて書き留めることにしている。その抜き書きノートもいつのまにか9冊目となった。
 さて、最近、「名言集」なるものが流行(はやり)である。単に、名言を集めただけのものもあれば、たとえば『3週間続ければ一生が変わる』(ロビン・シャーマ著)や『名文どろぼう』(竹内政明著)のように、著者のコーディネート(味付け)の上手さの光るものもある(最近、それぞれに続編が出版された)。
 映画やマンガにも「名セリフ」がある。映画『BECK』から、「バンドはただ技術のある奴だけ集まりゃいいってワケじゃない、ケミストリーが大切なんだ。」「チームワーク」ではなくて「ケミストリー」、つまり「化学反応」によって新しい物質や世界を生み出すんだというポジティブマインドが見えてくる。マンガ『ONE PIECE』の発行部数は2億冊を越え、東京の山手線では、麦わら一味で埋め尽くされた電車が走ったとのこと。数多い名言から、「命を賭けるのにこれ以上の理由が要るのかい。」仲間のためになら命を惜しまない誇り高き海賊たちの粋がある。
 本を通してたくさんのことばと出会い、ドキッとしたり、ウルッときたり。読書の世界ではいつも私は青春時代。優勝を目指した選手たちが勝ち負けを越えた感動を手に入れるように、たくさんの本を読むプロセス(習慣)の中で人はその人格を形成する。そう、本は人によって読まれるが、人は本によってつくられるのだ。一生の間に読める冊数なんて、タカが知れてる。そして、読むほどに何も分かっていないことを知るばかり。それでも人は本を読み、ことばを磨き、心を耕し、ほんものの自信を手に入れる。