2022年3月15日火曜日

『創造するということ』

続・中学生からの大学講義3 から
「日本のデザイン、その成り立ちと未来」 原研哉

「たとえば、水を張った水盤に桜の花びらを数枚散らすだけで、あたかも満開の桜の下にたたずんでいるように見立てる。これが「わび」の精神だ。そこには、神を呼び込むための「空っぽ」を運用する感性が息づいているのだ。「シンプル」というより「エンプティ」。何もないところに創造力を呼び込んで満たす。意味でびっしり埋めるのではなく、意味のない余白を上手に活用する。」(p.89~p.90)

 空っぽであることによって逆に豊かに満たされる。なんとも奥深い感性である。思い浮かべるのは、坂村真民さんの詩『からっぽ』。
 頭をからっぽにする/胃をからっぽにする/心をからっぽにする/
 そうすると/はいってくる すべてのものが/新鮮で 生き生きしている
この詩を繰り返し読んでいると、空っぽにするのもなかなか難しそうに思えてくる。何ももたないという生活、空っぽになればちゃんと必要なものが入ってくるという信頼、自分は何者でもないという哲学。私の実生活は「真逆」であるといわざるを得ない。でも、確かに、水盤に浮かぶ紅葉の一葉をみて美しいと感じ、お寺の鐘の空洞の響きに懐かしさを感じる。わびを感じとれるくらいの「隙間」を空けることならなんとかできるかな。

2022年3月14日月曜日

『歴史の読みかた』

続・中学生からの大学講義2 から
「日本文化の像を描く」 福嶋亮大

「歴史は永遠に未完成だと考えたのがカントです。彼は観察者、つまり「世界をウォッチする人」に重要な意味を認めた。たとえば、フランス革命にはロベスピエールなりサン=ジュストなりの登場人物が出てきますが、カントは、革命を完成させたのは彼ら主役ではなく、ウォッチャーであるまわりの大勢の観客だと言います。観客としての人間たちが、ある事件を目撃し、それについてひたすらコミュニケーションし続ける。それが人類の共同的な歴史なのです。」(p.177~p.178)

 当事者ではなく、「ウォッチャー」が時代を評価し、歴史のできごととしてその意味を決定する。かつて、日本が敗戦し、戦犯として裁かれた人たちは、誰も「私が戦争を始めた」とは言わなかった。「戦争に反対だったがそれを言い出せる雰囲気ではなかった」とみなが語った。戦争は、当事者にも責任がとれないし、勝ったとしても誰も英雄になれない。そして、大きな犠牲は「人類の共同的な歴史」として刻まれる。戦争や紛争の目撃者である私たちは、国を超えて協力し、これをとめなければならない。戦争の背景にある格差や資源や対立事項を含めて、人々の力でこれを止めることができたという「歴史」を記さねばならない。

2022年3月12日土曜日

『学ぶということ』

続・中学生からの大学講義1 から
「人の力を引き出す」 湯浅誠

「大きな災害が起きると、怪我をしたり財産を失ったりするのはもちろん、心にも被害を受けます。今回の東北太平洋沿岸部の高齢者たちにも、心のケアが必要でした。けれども「私は精神科医です。心が病んだ人は相談に来てください」とアナウンスしても誰も来てくれません。斉藤環さんは「血圧測定をします」と言ってみんなに来てもらいました。そして、わざと一番古いタイプの測定器を持って行ったのです。瞬間的に測定できる最新式の器械とちがい、どうしても二、三分の時間がかかります。その数分間に世間話をする。受け答えで気になった人がいれば、あとでゆっくり話を聞く。」(p.117~p.119)

 障がい者の兄をもつ湯浅さんは、子どもの頃、兄が車椅子姿を人に見られたくないというのに、堂々と車椅子を押して歩き、兄とけんかになったそうだ。そのことがずっと頭に残っていたという。障がい者の兄が引け目を感じない社会をつくるという信念が、いまの湯浅さんの活動に繋がっているのだろう。屋外で車椅子に乗る、車椅子を押すという経験は私にもある。見られている、迷惑をかけている、思い通りに動けないといった不自由さを、乗り手と押し手が共有する時間である。「血圧測定」のような、相手が自然に受け入れてくれるシチュエーションをつくるという工夫は、同じような不自由さやしんどさを知っている人でないとたぶん思いつかない。大きな災害があると「足湯ボランティア」がよく行われるそうである。「熱すぎませんか、温まってきましたか」のことばから始まる心の交流がそこに生まれるからだろう。

2022年3月11日金曜日

『生き抜く力を身につける』

中学生からの大学講義5 から
「〈若さの歴史〉を考える」 鵜飼哲

「両親の世代は、国が「タブラ・ラサ(白紙)」に戻るという経験をした。でもこれは、若者ががんばれば、まったく別の新しい国がつくれる、そういう希望を抱いていた時代だったともいえるのです。・・・ 私の世代は、「スチューデント・パワーの時代」でした。世界の至るところで学生運動が起きていました。「上の世代に対する不信感」は世界中にあったのです。でも、先行する世代に反発したからこそ、大人になって生きていくために必要な知識や考え方を学ぶことができたのだと思います。・・・ 皆さんは〈サバイバルの技術〉を幼少期から自力で身につける必要はありませんでした。これからは「見取り図のない時代」を生きていかなければなりません。」(p.182~p.188)

 「自主・自立」を目指す学校では、ある意味「サバイバル」な環境や壁となって立ちはだかる先生が必要になる。それは、「失敗」がとても大事だということを経験し、「一人では自立できない」ことを学ぶためである。自立した人というのは、自分一人で生きていける人のことではなく、自分が立っているところで、自分が生かされていることの意味を考えて、やるべきことをちゃんと実行する人のことだと思う。一人では自立できないというのは、人との関係の中にしか「自立」は存在しないからだ。「見取り図のない時代」というのは、豊かな社会に生きるがゆえの不安や不公平(格差)にもまれるということかもしれない。とすれば、自立は、自分の立ち位置を自分で変える(border areaに足を置く)ことができる力ともいえるのではないか。

2022年3月10日木曜日

『揺らぐ世界』

中学生からの大学講義4 から
「グローバルに考えるということ」 伊豫谷登士翁

 
「家族や共同体、国家など、これまで人がよりどころとしていたものに対する帰属意識が次第に薄れ、崩壊しつつある。そのような社会で問題をどのように捉え、自分をいかに表現していくのか。私自身、その疑問に答えられるわけではありませんが、常に自分に言い聞かせているのは、いろいろな考え方の境界(ボーダー)に自分を置くことで、新しいものの見方を発見していきたいということ。それがグローバルなものの考え方を身につける一つの方法なのではないかと思います。」(p.228)

 さまざまな領域の交差域(border)に立ってものごとを見るということ。「border」は本来、国境、境界線という意味だが、自分の中にあるさまざまな壁と捉えると、先入観(閉鎖的な思い)、内向き志向(限られた興味関心や限られた仲間)、安全志向(異言語・異文化との交流の敬遠)といったものもこれに入るだろう。正しいと思い込んでいるもの、居心地がよくて抜け出せないものを一度手放してみるとか、自分の立ち位置や価値観を敢えて崩してみてはどうだろう。世界の変化によって、そうせざるを得ない状況になってから慌てないように、自ら訓練し「森を見る力」を磨いておきたい。海外留学は、まさに国境を越えて目が開かれる機会となる。できれば感受性の豊かな若い時代にチャレンジすることをお勧めしたい。

2022年3月9日水曜日

『科学は未来をひらく』

中学生からの大学講義3 から
「社会の役に立つ数理科学」 西成活裕

「壁の落書きをなくすにはどうすればいいか? 海外で実施された画期的な解決法というのが「落書きをした人にお金をあげる」。噂を聞きつけてたくさんの人が集まって、前以上に落書きだらけになった。そこで、あげるお金を少しずつ減らしていって、最終的にはお金をあげないことにした。すると、誰も来なくなって落書きがなくなってしまった。これは、いたずら目的で来ていた者を、お金目的に変えさせたという点に勝因がある。」(p.146)

 渋滞現象を数学で解き明かす西成さんの話。落書きの話は、別の所でも聞いていたが何度聞いても面白い。こんな話もある。チンパンジーにパズルを与えると、彼らは喜んでそれに取り組む。パズルが解けたらバナナをあげるようにしたところ、チンパンジーは前にも増して一生懸命に解こうとする。ところが、バナナを与える前は、自分から取り組んでいたのに、バナナを与えるようになってからは、バナナが欲しいときにしかパズルを解かなくなったという。「遊び」が「労働」になってしまったわけだ。問題を全体から見る、物事の本質を捉えるというのは、なかなか高度な技術なのだ。

2022年3月8日火曜日

『考える方法』

中学生からの大学講義2 から
「それは、本当に「科学」なの?」 池内了

「科学には、いくつかの満たさねばならない要件がある。合理性、道理に適っていること。論理性、筋道が通っていること。実証性、実験や理論で証明できること。普遍性、質の違った事例にも適用できること。無私性、個人の意向や願望に左右されないこと。懐疑主義の必要性、疑義や批判を怠らないこと。そして、公有性、誰もが使えること。」(p.41~p.42)

 信用できる科学者は、科学の限界をきちんと述べる人、科学のいい所と弊害をきちんと告げる人であるとも池内さんは言っている。TVのニュースは事実を報道しているというけれど、それはすでに切り取られた情報だし、それを伝える人の思いが反映されたものでもある。限界や弊害について告知されても、報道や科学がどこまで真実に近いかどうか、誰もジャッジできない。満たさねばならない「要件」は、どれも必要条件であって十分条件ではないということだ。「科学」とは結果や理論のことではなくて、方法や過程や姿勢といったものを指すということなのか。「科学」を説明するだけでも、すでに「限界」がある。ただそうであっても、「科学者的」な振る舞いのできる人でありたいと思う。