2022年2月28日月曜日

『自分の頭で考える日本の論点』

出口治明

「物事を考えるときには、既存の常識に囚われてはなりません。とくに新しい問題を解決するためには、常識を疑うことが何よりも重要です。疑った結果、間違っているとわかれば否定する。否定できるだけの証拠がなければ、長く続いてきた伝統や習慣はそのまま大事にしておけばいい。」(p.416)

 コロナ禍でグローバリズムは衰退するのか、安楽死を認めるべきか、ネット言論は規制すべきか、・・・ 現在進行中の日本の課題をどう捉え、どう判断するか、自分の頭で考えることを促す。魚に水が見えないように、常識の中に囚われていることに気づかないことが多い。アメリカ留学では数々の荒波をかぶることになったが、言葉の壁は文化の違いや思考の違いであることを知り、見えないものを見ようとする心構えのようなものができた気がする(まだまだではあるが)。そうやって、アウェイの中で少数派であることに動じないアンカー(船の碇)を身につけていくのだ。

2022年2月27日日曜日

『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』

ブレイディみかこ

「「期末試験の最初の問題が、エンパシーとは何か、だった。」「で、お前、何て答えを書いたんだ?」「自分で誰かの靴を履いてみること、って書いた。」」(p.73)

 自分で誰かの靴を履いてみる(To put yourself in someone’s shoes)、これは、他人の立場に立ってみるという意味だそうだ。これを聞いて思い出すことが2つある。一つは長田弘さんの詩。「みるときには めをつぶる/めをあけても なにもみえない/あたまは じめんにくっつけて/あしで かんがえなくちゃいけない」 あたまでは解決できないことがあるのだ。もう一つは、高史明さんが「死にたい」という中学生にかけたことば。「まず手をひらいて相談しなきゃ。支えられている足の裏と相談してみなさい。」その子は数ヶ月後「足の裏の声が聞こえてくるまで歩くことにしました」と手紙を送ってきたという。いま自分の足がふみしめる大地でつながっている人がいるのだ。

2022年2月26日土曜日

『民主主義とは何か』

宇野重規

「政治において重要なのは、第一に、公共的な議論によって意志決定すること。第二に、決定されたことについて、市民は自発的に服従すべきこと。このような「政治」の成立を前提にして、初めて民主主義は実現します。」(p.50~p.51)

 民主主義の変遷は、平等な社会をつくるという理念の追求と、それを具体的な仕組みとして実現しようとする人々の行動の歴史である、と読み取る。「人々が地域的課題を自らの力で解決する意欲と能力をもつことが、民主主義の最大の可能性」とあるように、自分も社会の一員であり、社会を変えることができると信じることだろう。文部省著作の『民主主義』(1949)には次のような記述がある。「高い知性と、真実を愛する心と、発見された真実を守ろうとする意志と、正しい方針を責任をもって貫く実行力と、そういう人々の間のお互の尊敬と協力と ― りっぱな民主国家を建設する原動力はそこにある。そこにだけあって、それ以外にはない。」

2022年2月25日金曜日

『心はすべて数学である』

津田一郎

 「そもそも心とはいったい何なのか。科学者にもっとも広く支持されているのは、脳神経系の活動状態から心や意識が生まれてくる、心は自然現象だ、という考えです。・・・ 成長する過程において、お母さんやお父さんの話しかけや触れ合い、働きかけがあって脳神経系はどんどん発達していきます。脳は他者の心によって構築されているのではないか。」(p.50~p.53)

 心の動きのロジックを脳科学で解明しようとする。他者による心が入り込んで、私の脳をつくり「私の心」として表現されていくという話を、文字通り受けとめるのは難しい。人は他者によって自分を知り、他者によってその人らしさを身につけていく、とでも解釈しようか。もはや他者との境界線を引くことは難しく、ぼやけた領域にいる自分を、自分らしい「器」へと変形させていく。「器」であるがゆえに、やはりその中には誰かを受け容れ、包み込む役割をもっているともいえる。

2022年2月24日木曜日

『森を見る力』

橘川幸夫

「森を見る力は、現実の問題を無視して、遠くから高みの見物をすることではない。現実の問題を直視しながら、同時に遠い地点から現実を見る力である。感じる力と考える力のどちらにも偏重しない平衡感覚を持つ者を、大人と呼ぶ。」(p.20)

 同じ森を見るにしても、いまどこに立っているかによって、見え方も説明のしかたも緊張度合いも違ってくる。中島みゆきさんの曲に「闘う君の唄を、闘わない奴等が笑うだろう」という歌詞があるが、外側に立って人を評価する力はいらない。同じ森の中で汗を流す仲間たちと、森という溢れる自然への畏敬を感じとれる者でありたい。この本の中に「共生は、仏教用語で「ぐうしょう」と読む。これはお互いを刺激しあいながら生きるという意味である」との一文がある。人に生かされていると同時に、人を生かす役割をもっているということを、見過ごしてこなかったか。

2022年2月23日水曜日

『ふだん着の寺田寅彦』

池内了

 「子どもたちに少しでも病気の兆候があると、すぐに医者を呼んで、口うるさく医者の言うことを聞くよう説教している。ところが、自分が病気になった時、痛みを辛抱してなかなか医師の厄介にならず、研究室で喀血したり、倒れたりして漸く入院する始末である。・・・ 客観的に物事を見る訓練ができている科学者なら、自分の行動・行為がフェアでないと気付くはずだが、寅彦はこの点では科学者ではなく平凡な親であった。」(p,94~p.95)

 寺田寅彦さんを信奉する人は読まない方がよいかもしれない。家族の前ではちょっとわがままなお父さんという内幕をみたい人向け。寅彦さんはとんでもなくたくさんの随筆を残している。その中の一節、「頭の悪い人は、はじめから駄目にきまっているような試みを一生懸命につづけている。やっとそれが駄目と分かる頃には、しかし大抵何からしら駄目でないほかのものの糸口を取り上げている。科学の歴史はある意味では錯覚と失策の歴史である。」人間味溢れる、こういった言いまわしも私は好きだ。

2022年2月22日火曜日

『ヒトの壁』

養老孟司

「ヒトは適応性の高い生きもので、AI社会に適応してしまう可能性が高い。その意味でじつはAIがヒトに似てくるのではない。ヒトがAIに似てくるのである。社会がAI中心に動くということは、個人がAIのように動くことになる方向性を意味する。自分の意思のつもりが、じつは世の中に流されているだけ。」(p.91~p.92)

 「開戦はやむを得えなかったことで私の本意ではない」と昭和天皇がこたえように、IT化に遅れをとってはならないという思いだけで、その目的や影響を考えずに突き進むと同じ轍を踏むことになる、という警告であろう。しょうがなかった、そんなつもりじゃなかったと言い訳せずにすむよう、自分の意思を確かめる癖をつけよう。この本には、愛猫「まる」の話も出てくる。「猫なんて役に立つわけではなくて、迷惑をかけるだけの存在のはずだ。でも、だからこそ、あれでも生きているよ、いいんだよねと思える」とのくだりがある。役に立つか立たないか、損か得かばかりの社会でないことも、ちゃんと心に留めて。(2/22は「猫の日」だそうだ。)

2022年2月21日月曜日

『子どもはなぜ勉強しなくちゃいけないの』

おおたとしまさ編

「ほかの生物に比べて人間は圧倒的に子どもである期間が長いという特徴があります。そこから一つの仮説が見えてきます。あるときサルの中に、突然変異によりなかなか性的に成熟できない個体が現れました。一般的にいえば不利な条件を負っていることになります。しかしなぜかそういうサルが繁栄した。子ども時代に非常に重要な価値があったからだと考えられるわけです。つまり、遊びの時間が長いことが脳の発達を促した。そして、勉強も遊びの一部であるといえます。」福岡伸一(p.174~p.175)

 タイトルの問いに対して、8人の著名人が子どもに語りかける。福岡さんは、生物学的に子ども時代に価値があること、子どものときにしか感じられないセンス・オブ・ワンダーが本当の勉強に導いてくれることを話す。私は毎朝、福岡さんの「ドリトル先生ガラパゴスを救う」(朝日新聞に連載中)を読むのが楽しみで、少年のようにわくわくしている。そう、若い頃を懐かしむより、子どものように好奇心あふれる日々をすごそう(迷惑をかけない程度に)。大人になって子どもの頃の夢が叶うことがあるのだ、福岡さんのガラパゴスの旅(『生命海流』福岡伸一)のように。

2022年2月20日日曜日

『積読こそが完全な読書術である』

永田希

「返さなければならないメール、こなさなければならないタスク、観たいけどまだ観ていない映画、学びたい言語、興味のある学問の分野、そして、読みたいけれどまだ読んでいない本。それは、人類史上もっとも情報を「積む」人々が無数に発生しているということを意味しているのです。」(p.19)

 不完全な読書を前提にするしかない、と永田さんは語る。さまざまな情報を得て、醸成され、心が豊かになる一方で、もっともっと豊かになりたいと思う気持ちが、自分を追い立て、何も成長していない自分に失望したりする。読書に限らず、「不完全」であることを受け入れ、醸成のペースをちゃんと保つためには、敢えて「積む」という選択肢を選ぶことがあってもいいだろう。ミヒャエル・エンデが紹介していたインディアンの話を思い出した。「インディアンたちが、これまでの歩みが速すぎたからと、しばらく同じ場所を動こうとしなかった話」「水場の近くに住んだ方がよいのではと尋ねたら、そうしたら快適さという誘惑に負けることになると返された話」。いずれも、朝日新聞(1989.1.1)の記事。

2022年2月19日土曜日

『一刀斎、最後の戯言』『森毅の置き土産』

森毅(福井直秀編/池内紀編)

「よく勉強するとよい点でハゲマシ、さぼると悪い点でイマシメ、なんてことがいわれるが、これは「学校方言」だろう。ハゲマシとイマシメの正統的使用法は、失敗にがっかりするなとハゲマシ、成功にいい気になるなといましめるものである。どちらにしても、「たかが試験で」というのが、本来のはげましといましめである。」『学校とテスト』森毅(p.11)から

 森毅先生が亡くなられて10年以上がたつ。先生のことばは今も私に視野の狭さを気づかせてくれる。学生時代に先生の授業を受けたが、むしろ教師になってから受けた影響の方が強い。「雑木山」というコラムには、学校は杉山を目指してはならない、ウルシやイバラやマムシに注意しながらも、道を曲がるたびにおどろきとよろこびがあるところであってほしいと願われていた。私の心の拠り所でもあった。森先生のことばを大切に思う人がこのような本を出版された。そして、改めて先生の膨大な執筆の記録に驚く。

2022年2月18日金曜日

『サイエンス・ブック・トラベル』

山本貴光編

Peter Medawar著『Pluto's Republic』に関する吉成真由美の書評「科学的な思考とは何か?」から 
「「科学者は、自由に想像の翼を広げると同時に懐疑的であり、創造的であると同時に批判的でなければならないし、自由であると同時に非常に緻密な思考能力を持ち合わせていなければならない。」科学的思考を見分けるメダワーの視点はすがすがしいほど鮮明である。」(p.163)

 優れたサイエンスブックを紹介する科学者たちを掲載した本である。(このブログを孫引きされる場合、何世代引きになるのだろう。)『Pluto's Republic』は、プラトンの『Plato's Republic(国家)』をもじっている。過去の科学者(国家に属する人たち)の「科学的」とは言いがたい振る舞いを切り捨てることで、科学的な思考とは何かを明瞭にしていく。「仮説の形成と修正」の中で研ぎ澄まされていく人こそが科学者と呼ばれるのだろう。ただ、この『Pluto's Republic』はまだ日本語訳されていないそうだ。

2022年2月17日木曜日

『パラレルな知性』

鷲田清一

「本来、大学で学ぶということは、全体を見渡し、何が一番大事なのかという「価値の遠近法」を身につけることだったはずではないのか。それは、さまざまな事態に直面した際に、絶対に失ってはならないものと、あればいいというものと、端的になくてもいいものと、絶対にあってはならないものという四つを、即座に見分ける力をつけることである。」(p.275)

 右肩下がりの時代には、何をあきらめるべきかを考えることになる、それは社会がまともになっていくことでもある、と鷲田さんは語る。一番大切なもののために、これまで同じように大切にしてきたことをあきらめる、この決断はなかなか厳しい。でも、歳をとってできなくなってきたことに対して、執着しなくてよいのだよ、という労(いたわ)りのことばにもとれるのだ。つまりは、価値の遠近法というシャープなナイフを心の中にもちあわせておくことが肝要。

2022年2月16日水曜日

『学ぶよろこび』

梅原猛

「夢を見る人間には、心に大きな傷を持っている人が多いんですね。その心の傷が夢を見させている、そう思うんです。」(p.19)

 バイオリンはその胴の部分に傷のあるものの方がよく響くと聞いたことがある。これさえなければと、つい思ってしまうものだが、これがあるからより成長できる、高慢にならなくてすむと考える人がいる。この本の中で梅原さんは、西田幾多郎の著書を何度読み返してもよく解らず、解らないからいっそう深い魅力を感じて哲学の道を選んだと語っている。力がなくても、傷をもっていても、よくわからなくても、というのは、なにかを成し遂げるための動機やエネルギーになりうるのだ。

2022年2月15日火曜日

『21世紀の楕円幻想論』

平川克美

「真円的な思考は、楕円がもともと持っていたもう一つの焦点を隠蔽し、思考の外に追い出してしまいます。・・・ 解決がつかない複雑な問題を前にしたときに、とりあえずわたしたちがとり得る態度は、「泣く」「ためらう」「逡巡する」・・・ そして「やむを得ず引き受ける」こと以外にはないように思います。(p.208~p.217)

 テレビの報道に違和感を感じることが増えてきた。複雑な事件や事態のアウトサイドでその場だけのコメント、そして、それを聞いているだけの自分。楕円の異なる焦点を2つとも受けとめるというのは、自分の問題として関わり、自分の中で矛盾や葛藤を引き受けるということなのだろう。安全地帯で眺めているばかりでなく、同じような状況にある人に対して、自分ができることを考え、迷いながら行動するということ。自信がない、長続きしない無力感やうしろめたさのようなものを引きずりながらも。真円のようにスマートであろうとする自分よりも魅力的かもしれない。

2022年2月14日月曜日

『2020年6月30日にまたここで会おう』

瀧本哲史

「ブルームによれば、「教養の役割とは、他の見方・考え方があり得ることを示すことである」と。・・・ 学問や学びというのは、答を知ることではけっしてなくて、先人たちの思考や研究を通して、「新しい視点」を手に入れることです。」(p.30~p.31)

 『僕は君たちに武器を配りたい』など、若者たちに「未来を変えろ」との強いメッセージを投げ続けた瀧本さんが2019年に亡くなられた。視野や思考の枠組みを超えること、自分の才能に投資すること、そして具体的に行動を変えることを教えられた。私も、「わかった」という安心感よりも、「見方・考え方が深くなった」との実感を次につなげられる授業を目指したいと思う。「数学の歴史は考え方の歴史であり、既成概念から自由になる歴史でもある(上野健爾)」のだから。

2022年2月13日日曜日

『たちどまって考える』

ヤマザキマリ

「日本は鏡に映し出されたそのままの自分ではなく、他者が「あなたってこんな人」と象(かたど)った自分を自分自身だと思い込む傾向が強い社会だと感じています。コロナの出現によって、他者という鏡を失って戸惑う人もいるとは思いますが、ここらで自分自身の力で、自分というものを知ってみるのはどうでしょうか。映画や本や音楽は、自分で自分を知るための鏡としては最高の素材になります。」(p.122)

 「きょろきょろして、自分が自分であることに自信がなく、常に新しいものにキャッチアップしようと落ち着かない」ところが日本人のナショナル・アイデンティティとの論(『日本辺境論』内田樹)を思い出した。停滞することが悪いことのように感じ、たちどまって考えることが苦手なのは私だけではないと思うのだが、コロナ禍はいままでできなかったことを行動に起こすチャンスかもしれない。本を読み映画を見て、思考や感性を鍛える「自家発電」の時間を大切に、とのヤマザキさんからのメッセージ。

2022年2月12日土曜日

『たのしい知識』

高橋源一郎

「たいていのことを、ぼくたちはみんな知らない。ほんとうは知らないはずなのに、そのことに、ほとんど気づかない。・・・ そして、不完全と知ってはいても、その不十分な知識で、なにかについて語らなければならないときがある。」(p.16~p.17)

 コロナ時代をいち早く掴んだジョルダーノの話、かつての日常に戻ることがいいことなのかと逆インタビューする五味太郎の話など、「いま」を考える材料・視点を提供する。現在進行形の重大課題に対して自分の意見を発するにはためらいがある。特にリーダーたちの判断は周囲からの批判に晒される。そうでなくても、私は自分のことばを語ることを避けてきた。人前で話をするのが苦手な教師もいるのだ。でも、大好きな安野光雅さんですら「表現にはいつも恥ずかしさが伴う」と感じていることを知って、少し勇気をもらった。このブログを始めるきっかけである。

2022年2月11日金曜日

『数学する身体』

 森田真生

「古代ギリシアにおける数学は独白的であるよりも対話的で、それが目指すところは個人的な得心である以上に、命題が確かに成立するとの「公共的な承認」だったのだ。」(p.58)

 数学を対話的に学ぶと、物事をもっと深く見るようになると考えて、私も教材や授業の流れを工夫してきた(2019年の数学教育学会では「対話による探究活動を取り入れた数学授業の実践」の報告も)。上手いインタビュアのように、相手の意見に対して「嘘やん」「何で」「それからどうしたん」と続けざまに深掘りできる人が、相手の胸の内を引き出していく。授業では、自分では分かっていたつもりが相手に分かるように説明するのは難しかった、例をあげたり場合分けをしたり絵を描いたり工夫していくうちに自分の理解が深まった、説明することが楽しいことだと知った、といった生徒の声が聞かれた。ときには新しい疑問が湧いてきて「こんな場合どうする」と仲間を引きずり込むのだが、一緒に悩んでくれる友だちがいることが若者の特権。

2022年2月10日木曜日

『天才科学者はこう考える』

 ジョン・ブロックマン(編)

「人間は成功を自分のおかげだと思いたがる一方で、失敗は自分のせいだとは思いたがらない。・・・ 車を運転する人に尋ねると、10人中9人までが自分を平均より上のドライバーだと答える。」(p.68~p.70)

 バイアスによる偏重思考をしがちな自分を冷静に見つめ直す機会を与えてくれる科学者の研究が満載されている本。先日の「マシュマロテスト」の話も出てくる。「名前をつけるとわかった気になる」とか「温かいコーヒーカップを手に持っているときに知らない人を見ると第一印象がよくなる」とか、すべて実験結果に基づく現象なのだ。このような話を聞いても、自分は大丈夫と思った人、あるいは、納得したけど行動を変えない人は、たぶん9人のドライバーに含まれる。

2022年2月9日水曜日

『知ってるつもり 無知の科学』

スティーブン・スローマン
フィリップ・ファーンバック

「人間と他の動物との違いは個体の知力にあるのではない、とヴィゴツキーは主張した。他者や他の文化を通じて学習できること、そして協力できることこそが違いである、と。・・・ 知識のコミュニティにおいては、知識を自分が持っているか否かより、知識にアクセスできるか否かのほうが重要なのだ。」(p.130~p.140)

 自分は自分が思っているよりずっと無知であることを自覚し、他者に耳を傾け集団に貢献しようとする姿勢や能力を磨けと諭す本。最先端の科学には分からないことがいっぱいある。どんな問いをたて、どんな方法で解明すればよいか、仲間とともに考え行動していく力を身につけたい。探究型学習やSTEAM教育が求められる根本がここにある。「外から入手できる知識と頭の中にある知識を混同してしまう」危うさに注意するよう念押しされている。

2022年2月8日火曜日

『ファスト&スロー』

ダニエル・カーネマン

「心理学史できわめて有名な実験の一つに、マシュマロテストと呼ばれるものがある。4歳児の目の前にマシュマロ1個が入った皿を置き「いつでも食べてかまわない。でも食べずに15分我慢できたらもう一個あげる」と言って実験者は部屋を出る。・・・ 子供たちの約半数は15分待つ難行をやってのけるのだが、・・・ そして実験から10~15年後に、誘惑に勝った子供と負けた子供の違いが明らかになる。・・・ 4歳のときにセルフコントロールを示した子供たちは、知能テストで大幅に高い点数をとった。」(上巻p.88~p.89)

 さまざまな論文や実験をもとに、人の判断や行動の危うさを指摘する。直感と熟考のズレの具体的事例の数々は数学の教材としても秀逸である。実は、上記の話にはそのときの子供の様子も紹介されている。我慢できた子供たちの大半は、後ろを向いたり、数を数えたり、目を覆ったり、実にさまざまな誘惑から注意を逸らしていた、というのである。これは、私たち大人も見習うべきことだ。困難や誘惑事に頭をいっぱいにしたままじっと耐えるのでなく、注意力を別の方向に向けたり、全く違うことを始めたり、自分の中で場面転換を図ることができるかどうか。人からの批判をストレートに受けとめるばかりでなく、変化球を投げ返す能力もその一つといえるかもしれない。

2022年2月7日月曜日

『ベンチの足』

佐藤雅彦

 「私は、これまで、文章を書くときや番組を作る時には、できるだけみんなが分かるように解釈を伝えようと心がけてきた。・・・ 読者や鑑賞者が求めているのは「準備された説明」ではなく、それを自分で見つけたくなるほどの「妙(intrigued)」であったのである。」(p.266~p.267)

 数学を教えるのに「分かりやすく」がモットーであった私も、いつしか生徒を「混乱させる」方が力をつけることになると思うようになった。たとえば、確率を学ぶとき、初めに場合の数を数え上げるのはやめて、「赤3面、黄2面、青1面のサイコロ」を2個転がしたとき、(赤,赤)(赤,黄)(赤,青)(黄,黄)(黄,青)(青,青)のどの組が一番よく出ると思うか、と聞く。すると、(赤,赤)と答える生徒が多いので「じゃあ、やってみよう」ともっていく。予想通りにいかないことで、生徒自身が場合の数の数え上げを始める、という訳だ。

2022年2月6日日曜日

『わたしは「セロ弾きのゴーシュ」』

中村哲

 「日本では想像できぬ対立、異なる文化や風習、身の危険、時には日本側の無理解に遭遇し、幾度か現地を引き上げることを考えぬでもありませんでした。でも自分なきあと、目前のハンセン病患者や、旱魃にあえぐ人々はどうなるのか、という現実を突きつけられると、どうしても去ることが出来ないのです。・・・ 自分の強さではなく、気弱さによってこそ、現地事業が拡大継続しているというのが真相であります。・・・ 賢治の描くゴーシュは、欠点や美点、醜さや気高さを併せ持つ普通の人が、いかに与えられた時間を生き抜くか、示唆に富んでいます。遭遇する全ての状況が、天から人への問いかけである。それに対する応答の連続が、即ち私たちの人生そのものである。・・・」(p.224~p.225)

 この本は、2019年12月に亡くなられた中村哲さんの過去のインタビュー集である。目の前の現実に誠実に向き合い、天からの問いかけをしっかりと受けとめ、なすべきことをそのまま行動に移してこられた方であり、ゴーシュのように素直に生き、宮沢賢治のように人のためにすべてを捧げられた方であることに、改めて強い感銘を受ける。

2022年2月5日土曜日

『答えのない世界を生きる』

小坂井敏晶

「異文化からもたらされる知識は、加算的に作用して既存の世界観を豊かにするのではない。新しい知識を加えるのではなく、いまある価値体系を崩す。これこそが留学の目的だ。」(p.40)

 1年間アメリカの大学で学び日本人学校で教えるという経験をした。これまでの自分の経験値が通用しない、自分の価値がどこにあるのか分からない、それでも自分の拠り所を求めてもがき続ける、・・・ 私の場合、こういった挫折や葛藤を経ることではじめて自分という器を変形できたと思う。「英語という外国語を学ぶことは、未知と向き合い異質性と格闘することだ」という鳥飼玖美子さんのことばにも共感する。グローバルリーダーというのは、挫折や葛藤に向き合う人の不安や傷みをしっかりと受けとめて支援できる人のことなのだろう。

2022年2月4日金曜日

『コロナ後の世界』

内田樹

 「なぜ、だれも読まない本を本棚に並べるというような「無駄なこと」をひとはするのだろうか。・・・ 壁を埋め尽くす書棚がその部屋の主人に、おのれの無知と経験の狭さを思い知らせるための装置であったというのはありそうなことである。」(p.232~p.233)

 この本では「反知性的」について、知的能力は高いがその人のせいで集団の知的パフォーマンスを下げてしまうような人物のことであると語られる。集団の中でも柔軟に自分の知識や考えをバージョンアップできること、相互啓発が新たな変化を生みだしていくことを願うこと、そんな行動こそが「知性的」なのだろう。ベテランの先生も、生徒に間違いを指摘されて「よく気づいたね」と褒める余裕がないといけない。書棚とも仲良くつきあいながら。

2022年2月3日木曜日

『うしろめたさの人類学』

松村圭一郎

「いろんな理由をつけて不均衡を正当化していることに自覚的になること。ぼくらのなかの「うしろめたさ」を起動しやすい状態にすること。・・・それまで覆い隠されていた不均衡を目のあたりにすると、ぼくらのなかで、なにかが変わる。その変化が世界を動かしていく。」(p.174~p.175)

 私もまた、困っている人を見て見ぬ振りをし、時間がないから継続できないからみんなもやってないからと言い訳をし、国や社会が対策すべき事柄だからと目をつむる。人に迷惑をかけず人と関わることの煩わしさを避けることがスマートな生き方と思ってこなかっただろうか。でも、躓きや摩擦や恥ずかしさを乗り越えないと心は通じ合わない。たぶんスマートな先生やスマートな親は存在しない。伝えたいことは伝わらず、それでも伝え続けると、思い以上のことが伝わったりする。伝えるという場面においても、人の傷みや困窮に気づいて、私に何ができるだろうと考えるところから始まるのだと思う。