2022年3月24日木曜日

『カガク力を強くする!』

元村有希

「科学・技術の成果の光ばかりに気を取られ、影の部分を見ようとしない人々を「文明社会の野蛮人」と名付けた人がいます。オルテガ・イ・ガセットは、『大衆の反逆』で「大衆ほど無責任で気まぐれでわがままな存在はいない」といいます。・・・ 文明社会に生きているというだけで文明人だと錯覚しているけれど、その文明に頼りきるうちに、人間が本来、身につけておくべき直感力や判断力、理性、忍耐力、羞恥心などが忘れ去られてしまっているのではないか。オルテガは、80年以上前に書いたこの本で警告を発したのです。」(p.22~p.25)

 この指摘は、単に最新機器に頼りすぎるなとか、カガクの仕組みに目を向けろとか、ものづくりの技術を身につけよとか言っているのではない。「無責任できまぐれでわがまま」であること、不平や不満をいうばかりで都合の悪いことには沈黙する態度に警告を発しているのだ。ガソリンが高い、電気代が高いなどと文句ばかりいっているから、原発の再稼働を許してしまう。併せて、核兵器の開発や温暖化を加速する社会システムなど、科学者や政治家による文明破壊の動きを見過ごさないで、これに抵抗する力を持たねばならないということだ。秋岡芳夫さんは『新和風のすすめ』でこんなことを書いている。「いまの日本には類猿人(るいえんじん)が増えている。類人猿(るいじんえん)も類猿人もバナナは好きなようだが、類猿人は買って食べ、類人猿は木に登って食べる。両方ともに自分で種をまいたり肥料をやったりしてバナナを作ろうという意識はまったくない、というところで共通している」と。科学・技術というレベル以前に、農作物も、道具ひとつもつくれない、つくろうとしない姿を自覚しなければならない。

(忙しくなってきたので、投稿はしばらくお休みに)

2022年3月23日水曜日

『逆襲される文明』

塩野七生

「想定しなかった事態に直面したときに、日本人はまだまだ弱い。事態の対処だけでなく、想定していなかった質問をされた場合の答え方、等々。それを眼にするたびに私は思う。日本人て何とまじめなのだろう。だが同時に心配になる。世界では、それも権力者ともなると、人が悪いほうが当たり前なのだから。戦術には、忍者の戦法もあるんですよ。それがユーモアでありアイロニーである。ユーモアで相手との間に距離を保ち、アイロニーで突くという戦法だ。」(p.80)

 アメリカ滞在中にたくさんのイベントに参加した。そこで行われるスピーチには、必ず観客を笑わせるジョークが入る。内容を聞かせるためには、まず心を掴まないといけないのだ。(寝ている生徒を怒る先生は、自分の話が退屈であることを認識しないといけない。)「ユーモア」と「アイロニー」と聞いて、千葉雅也さんの『勉強の哲学』を思い出した。アイロニーとは「ツッコミ」で、周りの当たり前に否定を向けること、ユーモアとは「ボケ」で、見方をズラして考えること。これらは、環境から自由になる思考スキルであると、千葉さんはいう。塩野さんが心配しているのは、「まじめ」にみえているのは、この環境(周囲の目)に縛られているのだよ、ということだろう。「人が悪い」という相手に飲まれることなく、すっと身をかわしたり、駆け引きを楽しんだり、いま風の「忍者戦法」を磨かねばならない。ボケとツッコミの得意な関西人ならなおさらに。

2022年3月22日火曜日

『世界を変えるSTEAM人材』

ヤング吉原麻里子・木島里江

「多様な領域で活躍するSTEAM人材たちですが、そこには共通するマインドセットを見いだせます。型にはまらない自由な発想(think out of the box)、スピード感をもって発想を行動に変えていく「ひとまずやってみる」(give it a try)精神、そして「失敗して前進する」(fail forward)という考え方が、STEAM人材を端的に捉えています。」(p.56)

 ある高校で、「総合的探究の時間」を「Thinking Design」と名付けて、一年間、ちょっと変わった「数学」の授業をした。「初めて見る問題でも自分で考えようとする力」「間違いを恐れないで他者と意見を語り合える力」をつけることを授業の目標とした。答えを言わない科学TV番組「考えるカラス」(NHK)に触発されて、勘違いしそうな、迷いそうな問題を、議論や実験を進めながら解決していった。まさに、「give it a try!」「fail forward!」の精神であったと共感する。教材づくりや授業の振り返りは、自転車操業の大忙しだったが、高校生の満足度は高かったのでほっとした。STEAM教育や主体的・対話的で深い学びには、こちらの仕掛けや熱意に答えてくれる「よい生徒たち」の驚きや笑顔が極めて重要。

2022年3月21日月曜日

『科学という考え方』

酒井邦嘉

「ケプラーとブラーエの出会いは、歴史的に見れば理論と実験を結びつける理想的なものであったが、二人の天才の関係は、ゴッホとゴーギャンと似て緊張状態が続いたという。ケプラーは次のように述べている。「ブラーエは最良の観測結果をもっており、いわば新しい建物を建てる資材を持っているわけです。ただ一つ、彼に不足しているのは、独自の設計図を持ち、このすべてを使いこなす建築家です。」」(p.83)

 設計図とは、科学的な着想・考え方のことで、建築家とは、これを論理的に組み立てる人のことだろう。緻密な分析や最先端の技術は、ビッグピクチャー(広い視野、将来展望)をもったデザイナーの発想や制作によって生きる。ブラーエは天動説にこだわっていたし、ケプラーはブラーエのデータがなければ仮説を実証することができなかった。資材を蓄え、資質を磨き、世界を見据え、未来をつくる。『すごい実験』の多田将さんは次のように言っていた。「科学の世界は、東急ハンズみたいのものです。その研究が何の役に立つかは置いておいて、ハンズの棚に並べるんです。そしたら、次の世代の学者が棚を見て、自分の役に立つものをピックアップしていきます。そうして作り上げたもの、それがたとえば、この携帯電話なんです。」科学の歴史では、すぐに役立ちそうにないものがよく役に立つ。「goodpenguin」での教材づくりと100均の棚の関係もこれに近いかも。

2022年3月19日土曜日

『リベラルアーツの学び』

芳沢光雄

「見直しで大切なことの一つに「疑う気持ちを強くもって文章を読む」ことがあると考えます。2006年の秋に「今の景気の拡大期間はいざなぎ景気を超えた」というニュースがありました。そのとき「いざなぎ景気」の年平均成長率が11.5%という報道と14.3%という報道の2つがあったのです。不思議に思って考えたところ、前者は相乗平均の発想で正しいものであり、後者は相加平均の発想で誤ったものであることが分かりました。」(p.126)

 という記述を読んだので、計算してみた。いざなぎ景気は、4年9ヶ月で67.8%の成長だったという。67.8を4.75年で単純に割ると、約14.3(%/年)になる、これが誤りの方の値。実際には、年平均成長率を x %として、(1+x/100)^4.75=1.678 となる x を求めればよいので、これを解くと、x≒11.51(%/年)となって、正しい値になった。四半期(3ヶ月)ごとに報告される成長率に合わせれば、(1+x/100)^19=1.678 として、x≒2.76(%/3ヶ月) なので、四半期毎に2.76%の成長が19期続いたことになる。もしこれがあと1年9ヶ月続いていたら、2倍(100%)の成長率になっていたことになる。(所得倍増を公約にしていた岸田首相に教えてあげたい。)「疑う気持ち」と併せて「やってみよう」という心がけも大切かと。

2022年3月18日金曜日

『学問の発見』

広中平祐

「トーマス・エジソンの研究所には貼り紙があって、「人間には悪い性格がある。考えないで済む方法がないかと一生懸命に考える」と書いてあった。研究の途中でわからないことがあったり必要なことがあると、解決方法がどこかの書物に書いてあるのではないかと次から次へと本を探し、一日時間をつぶしてしまうことがある。そのような研究態度を戒める言葉だった。まずは自分で考えるのだ。」(p.3~p.4)

 研究活動であれば先行研究や論文を下地にすることは大事なことでもある。しかし、もっと基本的な次元で、人の考えをインプットしすぎて、人の思考と自分の思考の区別がつかなくなる事態に陥る危険性を示唆しているように思う。事件や情勢やときにはゴシップでさえ、誰かが言った評価・評論を真に受けて、あたかも自分の意見であるかのようにアウトプットするさまは見苦しい。薄っぺらい、根っこのない意見でなく、多数派と異なるものであっても、あるいは同じであっても、「まずは自分で考え」たといえるものをもっておきたい。ショーペンハウエルは「読書は他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない」といっている。読書もまた、自分の中に取り込むだけ、聞き従うだけという態度を改めないと、発酵過程の乏しいお酒のように、文字通り、自らを「醸成」していくことはできない。

2022年3月17日木曜日

『コロナと生きる』

内田樹・岩田健太郎

「熊本地震では、避難所は人が多くて密集していました。「この状態を放置していたら、感染症が蔓延して危ないです。半分ぐらいの人をホテルに移動させましょう」と提言したんですが、県庁の人は「そんなのできるわけないですよ」と怒るんです。自分以外の誰かが得するなら、みんなで損をしたほうがマシだと考えるんですね。嫉妬を鎮めるためにサービスを均質化するということがほとんど自己目的化してきましたね。」(p.105~p.106)

 「なんであの人がホテルでこっちは避難所なのか説明しろ」なんて声が聞こえてきそうだ。危機的状況を脱することより、不公平感情を呼び込まないことを優先する社会なのだ。程度問題もあるけれど、公平な対応なんてありえないと考えた方がいい。そもそも何が「公平」かという判定もほぼ不可能だ。不公平を我慢して指示に従うことができる集団があるとすれば、それは日頃からリーダーとの信頼関係が築けているということだろう。「あの人がそこまでいうのだから仕方ない」「わかった、おれも一肌脱ごう」なんて、「内容」じゃなくて、やっぱり「人」なのだ。不信感が先に立てば、いくら一生懸命説明してもたぶんその言葉は伝わらない。

2022年3月16日水曜日

『コロナ後の世界を生きる』

村上陽一郎編
「「ウィズ」から捉える世界」 ロバート・キャンベル

「ソーシャル・ディスタンスは、今はまだ物理的な距離として考えられていますが、社会の中の自分自身の位置づけを知る、自分の居場所から他者との関係を見つめ直すことだとも捉えたい。一人ひとりの資質、意欲によって、自律的に能力を発揮できる社会をいかに整備できるか、そこが問われています。」
(p.110)

 アメリカで生活をしていたとき、よく親しみを込めてハグをした。照れくさくも、あなたとの関係を大事に思っている、という確認や約束であるように感じた。日本では、コロナに関係なく、ボディタッチはほとんどしない。距離をとることが相手を尊重することで、干渉しすぎてはいけないと、少なくとも私は無意識にそう思ってきた。そんな私だが、病院や施設や学校でクラスター感染が発生したときにこれを責める人たちがいることには強く違和感をもった。親身になって人のために働く場、ともに汗を流して喜び合う場では当たり前のこと、むしろ、そこにあるべき大切なつながりがあったことに誇りをもってほしいと思った。「クラスター(群れ)」という言葉が、ハグのできる仲間というような前向きな意味で使われる日を待ち望む。

2022年3月15日火曜日

『創造するということ』

続・中学生からの大学講義3 から
「日本のデザイン、その成り立ちと未来」 原研哉

「たとえば、水を張った水盤に桜の花びらを数枚散らすだけで、あたかも満開の桜の下にたたずんでいるように見立てる。これが「わび」の精神だ。そこには、神を呼び込むための「空っぽ」を運用する感性が息づいているのだ。「シンプル」というより「エンプティ」。何もないところに創造力を呼び込んで満たす。意味でびっしり埋めるのではなく、意味のない余白を上手に活用する。」(p.89~p.90)

 空っぽであることによって逆に豊かに満たされる。なんとも奥深い感性である。思い浮かべるのは、坂村真民さんの詩『からっぽ』。
 頭をからっぽにする/胃をからっぽにする/心をからっぽにする/
 そうすると/はいってくる すべてのものが/新鮮で 生き生きしている
この詩を繰り返し読んでいると、空っぽにするのもなかなか難しそうに思えてくる。何ももたないという生活、空っぽになればちゃんと必要なものが入ってくるという信頼、自分は何者でもないという哲学。私の実生活は「真逆」であるといわざるを得ない。でも、確かに、水盤に浮かぶ紅葉の一葉をみて美しいと感じ、お寺の鐘の空洞の響きに懐かしさを感じる。わびを感じとれるくらいの「隙間」を空けることならなんとかできるかな。

2022年3月14日月曜日

『歴史の読みかた』

続・中学生からの大学講義2 から
「日本文化の像を描く」 福嶋亮大

「歴史は永遠に未完成だと考えたのがカントです。彼は観察者、つまり「世界をウォッチする人」に重要な意味を認めた。たとえば、フランス革命にはロベスピエールなりサン=ジュストなりの登場人物が出てきますが、カントは、革命を完成させたのは彼ら主役ではなく、ウォッチャーであるまわりの大勢の観客だと言います。観客としての人間たちが、ある事件を目撃し、それについてひたすらコミュニケーションし続ける。それが人類の共同的な歴史なのです。」(p.177~p.178)

 当事者ではなく、「ウォッチャー」が時代を評価し、歴史のできごととしてその意味を決定する。かつて、日本が敗戦し、戦犯として裁かれた人たちは、誰も「私が戦争を始めた」とは言わなかった。「戦争に反対だったがそれを言い出せる雰囲気ではなかった」とみなが語った。戦争は、当事者にも責任がとれないし、勝ったとしても誰も英雄になれない。そして、大きな犠牲は「人類の共同的な歴史」として刻まれる。戦争や紛争の目撃者である私たちは、国を超えて協力し、これをとめなければならない。戦争の背景にある格差や資源や対立事項を含めて、人々の力でこれを止めることができたという「歴史」を記さねばならない。

2022年3月12日土曜日

『学ぶということ』

続・中学生からの大学講義1 から
「人の力を引き出す」 湯浅誠

「大きな災害が起きると、怪我をしたり財産を失ったりするのはもちろん、心にも被害を受けます。今回の東北太平洋沿岸部の高齢者たちにも、心のケアが必要でした。けれども「私は精神科医です。心が病んだ人は相談に来てください」とアナウンスしても誰も来てくれません。斉藤環さんは「血圧測定をします」と言ってみんなに来てもらいました。そして、わざと一番古いタイプの測定器を持って行ったのです。瞬間的に測定できる最新式の器械とちがい、どうしても二、三分の時間がかかります。その数分間に世間話をする。受け答えで気になった人がいれば、あとでゆっくり話を聞く。」(p.117~p.119)

 障がい者の兄をもつ湯浅さんは、子どもの頃、兄が車椅子姿を人に見られたくないというのに、堂々と車椅子を押して歩き、兄とけんかになったそうだ。そのことがずっと頭に残っていたという。障がい者の兄が引け目を感じない社会をつくるという信念が、いまの湯浅さんの活動に繋がっているのだろう。屋外で車椅子に乗る、車椅子を押すという経験は私にもある。見られている、迷惑をかけている、思い通りに動けないといった不自由さを、乗り手と押し手が共有する時間である。「血圧測定」のような、相手が自然に受け入れてくれるシチュエーションをつくるという工夫は、同じような不自由さやしんどさを知っている人でないとたぶん思いつかない。大きな災害があると「足湯ボランティア」がよく行われるそうである。「熱すぎませんか、温まってきましたか」のことばから始まる心の交流がそこに生まれるからだろう。

2022年3月11日金曜日

『生き抜く力を身につける』

中学生からの大学講義5 から
「〈若さの歴史〉を考える」 鵜飼哲

「両親の世代は、国が「タブラ・ラサ(白紙)」に戻るという経験をした。でもこれは、若者ががんばれば、まったく別の新しい国がつくれる、そういう希望を抱いていた時代だったともいえるのです。・・・ 私の世代は、「スチューデント・パワーの時代」でした。世界の至るところで学生運動が起きていました。「上の世代に対する不信感」は世界中にあったのです。でも、先行する世代に反発したからこそ、大人になって生きていくために必要な知識や考え方を学ぶことができたのだと思います。・・・ 皆さんは〈サバイバルの技術〉を幼少期から自力で身につける必要はありませんでした。これからは「見取り図のない時代」を生きていかなければなりません。」(p.182~p.188)

 「自主・自立」を目指す学校では、ある意味「サバイバル」な環境や壁となって立ちはだかる先生が必要になる。それは、「失敗」がとても大事だということを経験し、「一人では自立できない」ことを学ぶためである。自立した人というのは、自分一人で生きていける人のことではなく、自分が立っているところで、自分が生かされていることの意味を考えて、やるべきことをちゃんと実行する人のことだと思う。一人では自立できないというのは、人との関係の中にしか「自立」は存在しないからだ。「見取り図のない時代」というのは、豊かな社会に生きるがゆえの不安や不公平(格差)にもまれるということかもしれない。とすれば、自立は、自分の立ち位置を自分で変える(border areaに足を置く)ことができる力ともいえるのではないか。

2022年3月10日木曜日

『揺らぐ世界』

中学生からの大学講義4 から
「グローバルに考えるということ」 伊豫谷登士翁

 
「家族や共同体、国家など、これまで人がよりどころとしていたものに対する帰属意識が次第に薄れ、崩壊しつつある。そのような社会で問題をどのように捉え、自分をいかに表現していくのか。私自身、その疑問に答えられるわけではありませんが、常に自分に言い聞かせているのは、いろいろな考え方の境界(ボーダー)に自分を置くことで、新しいものの見方を発見していきたいということ。それがグローバルなものの考え方を身につける一つの方法なのではないかと思います。」(p.228)

 さまざまな領域の交差域(border)に立ってものごとを見るということ。「border」は本来、国境、境界線という意味だが、自分の中にあるさまざまな壁と捉えると、先入観(閉鎖的な思い)、内向き志向(限られた興味関心や限られた仲間)、安全志向(異言語・異文化との交流の敬遠)といったものもこれに入るだろう。正しいと思い込んでいるもの、居心地がよくて抜け出せないものを一度手放してみるとか、自分の立ち位置や価値観を敢えて崩してみてはどうだろう。世界の変化によって、そうせざるを得ない状況になってから慌てないように、自ら訓練し「森を見る力」を磨いておきたい。海外留学は、まさに国境を越えて目が開かれる機会となる。できれば感受性の豊かな若い時代にチャレンジすることをお勧めしたい。

2022年3月9日水曜日

『科学は未来をひらく』

中学生からの大学講義3 から
「社会の役に立つ数理科学」 西成活裕

「壁の落書きをなくすにはどうすればいいか? 海外で実施された画期的な解決法というのが「落書きをした人にお金をあげる」。噂を聞きつけてたくさんの人が集まって、前以上に落書きだらけになった。そこで、あげるお金を少しずつ減らしていって、最終的にはお金をあげないことにした。すると、誰も来なくなって落書きがなくなってしまった。これは、いたずら目的で来ていた者を、お金目的に変えさせたという点に勝因がある。」(p.146)

 渋滞現象を数学で解き明かす西成さんの話。落書きの話は、別の所でも聞いていたが何度聞いても面白い。こんな話もある。チンパンジーにパズルを与えると、彼らは喜んでそれに取り組む。パズルが解けたらバナナをあげるようにしたところ、チンパンジーは前にも増して一生懸命に解こうとする。ところが、バナナを与える前は、自分から取り組んでいたのに、バナナを与えるようになってからは、バナナが欲しいときにしかパズルを解かなくなったという。「遊び」が「労働」になってしまったわけだ。問題を全体から見る、物事の本質を捉えるというのは、なかなか高度な技術なのだ。

2022年3月8日火曜日

『考える方法』

中学生からの大学講義2 から
「それは、本当に「科学」なの?」 池内了

「科学には、いくつかの満たさねばならない要件がある。合理性、道理に適っていること。論理性、筋道が通っていること。実証性、実験や理論で証明できること。普遍性、質の違った事例にも適用できること。無私性、個人の意向や願望に左右されないこと。懐疑主義の必要性、疑義や批判を怠らないこと。そして、公有性、誰もが使えること。」(p.41~p.42)

 信用できる科学者は、科学の限界をきちんと述べる人、科学のいい所と弊害をきちんと告げる人であるとも池内さんは言っている。TVのニュースは事実を報道しているというけれど、それはすでに切り取られた情報だし、それを伝える人の思いが反映されたものでもある。限界や弊害について告知されても、報道や科学がどこまで真実に近いかどうか、誰もジャッジできない。満たさねばならない「要件」は、どれも必要条件であって十分条件ではないということだ。「科学」とは結果や理論のことではなくて、方法や過程や姿勢といったものを指すということなのか。「科学」を説明するだけでも、すでに「限界」がある。ただそうであっても、「科学者的」な振る舞いのできる人でありたいと思う。

2022年3月7日月曜日

『何のために「学ぶ」のか』

中学生からの大学講義1 から
「「賢くある」ということ」 鷲田清一

「結局私たちは「市民」ではなく「顧客」になってしまった。私たちは、自分たちの安心と安全のためにプロを育て「委託」するという道を開拓してきた。しかしその制度の中で暮らすうちに、自分が持つ技や能力を磨くことを忘れてしまった。自分で物事を決めて担うことができる市民ではなくなり、ただのサービスの顧客に成り下がったのだ。」(p.190)

 税金を払っているのだから、高い学費を払っているのに、といった台詞にはうんざりする。見返りを当たり前と考え、少しの損も許さないと目を光らせている印象を受ける。そうではなくて、自分も困っている、どうすればいいか一緒に考えてほしいと言えばいい。コミュニティーの中では、自分はたいてい顧客ではなくて、メンバーであるはずなのだ。苦労をともにしたメンバーであれば、親しみや誇りが芽生え、恩返しや恩送りをしたいという気持ちを連れてきてくれるはず。技や能力を磨くこと、敢えて苦労を引き受けることを思い出そう。そして「一生学び」であることを楽しみたいと思う。

2022年3月6日日曜日

『知の体力』

永田和宏

「どんな大学に入学しても、どんな賞を獲得しても、心から喜んでくれる人がいなければなんの意味も持たない。ほんのちょっとした自分の行為を心から褒めてくれる存在があるとき、自分がそれまでの自分とは違った輝きに包まれているのを感じることができる。・・・ 愛する人を失ったとき、それが痛切な痛みとして堪(こた)えるのは、その相手の前で輝いていた自分を失ったからなのでもある。」(p.219~p.220)

 以前、とある機関誌に書いた原稿。「・・・荒井由実の歌に「人ごみに流されて変わってゆく私を、あなたはときどき遠くでしかって、あなたは私の青春そのもの」とあります。正に、その人がいるから今の私の存在価値があるというのは、何ものにも代えがたい内発的動機といえるでしょう。高校や大学時代に、是非「青春そのもの」といえる人を見つけてくださいね。青春とは「無茶ができること、そして、応援してくれる仲間がいること」と読んだことがありますが、「無茶」も「仲間」も人から言われてやるもの、つくるものではないですよね。・・・」 愛する人がいるということは、自分という器の中に宝物をもっているということ。器そのものにではなく、宝物にこそ価値があり意味があるということに気づくことなんだろう。

2022年3月5日土曜日

『手づくりのアジール』

青木真兵

「見えるものだけを見る。わかることだけをわかる。現代はできる限り速いスピードで、これらを行うことが求められています。人間社会でうまくやっていくための能力はほとほどに、見えないものを見ようとすることが重要なのです。このような能力を帚木蓬生氏は「ネガティブ・ケイパビリティ」と呼びます。」(p.161~p.162)

 帚木さんは、ネガティブ・ケイパビリティを「宙吊り状態を支える力」と表現する。拙速に答えを出さずに宙ぶらりんでいることに耐えるという感じか。たいていのことはすぐに解決しないものと知りながら、白黒をつけたがる現代社会に順応している私がいる。一方で、「手づくり」好きの私は、ものをつくることに熱中し時間を忘れてよく怒られた。たくさんの失敗や修正を繰り返すその作業は、ある意味、宙ぶらりんかもしれない。耐えてる意識はないけれど。

2022年3月4日金曜日

『わからないまま考える』

山内史朗

「「こんなことをして何になるんだ」と思いながら、意味や目的のない作業に人間は従事する。・・・ 人生は繰り返せないから、と躊躇しているうちに、失敗を試してみることのできる時間も過ぎてしまって、失敗をするチャンスさえ失ってしまう。・・・ 他の道もあり得たが、私はこの道を自分の人生として選んだ、ということだ。」(p.39~p.46)

 正解を求め、失敗を恐れ、人との比較や過去の自分との比較をすることが習慣化してしまっている。そういえば、10年前に始めときゃよかったと思うかもしれないと、40歳になってスノーボードを始めたりしてたなあ。「習慣化」を逆手にとったわけだ。迷いや後悔なんて当たり前と考えよう。次の10年後の自分に、なんであのときやっとかへんかったんと言われないように、また新しいことを始めようか。

2022年3月3日木曜日

『生物はなぜ死ぬのか』

小林武彦

「生きているものは裏を返せば「死ぬもの」です。生と死、変化と選択の繰り返しの結果として、ヒトもこの地球に登場することができました。死があるおかげで進化し、存在しているのです。」(p.216)

 ターンオーバー(生まれかわり)こそが奇跡の星地球の魅力であると小林さんはいう。そんな風にいわれても、身近な人の死や自身の死は簡単に受け入れられない、と思ってしまう。感情豊かに発達してしまった脳のおかげで、悲しみと怖れをもち続けなければならないのだが、核兵器の緊張が迫る中、いまは、多様ないのちを育むこの地球の将来を守りたいと願う。

2022年3月2日水曜日

『仕事のお守り』

ミシマ社編

「mediaは、mediumの複数形で、原義は「媒介」ですよね。あくまで「媒介」です。どれだけやわらかに受け止め、気持ちよく届ける(伝える)ことができるか、です。・・・ 「自分のことを、ただ時間を通過させているだけの、流動的な存在なのだとお考えになればいいと思います。他人の色を受け入れて、初めて自分という価値があらわれてくるのです。(村上春樹)」(p.126~p.130)

 後半のことばは「思っていることを伝えられない」という人の悩みに、村上春樹さんが答えたものだ。教会のステンドグラスは、ガラスを通過したその光に美しさを感じとることができる。本当に伝えたいと思うものがあるときは、「自分」というものがその障害になってはいけない。日常をちゃんと受け止め、穏やかに振る舞えば、自分でも気づかない美しい光をともなって人に伝わると信じよう。

2022年3月1日火曜日

『人と数学のあいだ』

加藤 文元

「「それは、僕自身がそうだったから。自分が本を読んでいる時に、この作家は絶対に苦しい時間、寂しい時間、一人っきりの時間を過ごしたはずだという前提で読むんですよ。(吉田修一)」・・・ 孤独な時間が必要なのではないか。・・・ その人の出す「音色」に共鳴してくれる他者が必要だということです。」(p.92~p.104)

 人が人をリスペクトできるのは、相手が孤独だったり苦しかったりしたであろう時間を感じとれたときではないだろうか。安野光雅の絵画展に行ってきた。一枚の絵にかけた時間だけでなく、人生をかけて積み上げてこられた心のこもった「時間」というものを、絵の中に感じる。吹奏楽部の演奏会や野球部の試合にでかけて、いつも心が熱くなるのは、彼らのプレーの背景に、苦労や悩みとの闘いの時間を感じるからだ。そう、人の孤独な時間は「共鳴」を連れてくる。小さな音色が、共鳴によって、人の心を揺さぶってくるのだ。

2022年2月28日月曜日

『自分の頭で考える日本の論点』

出口治明

「物事を考えるときには、既存の常識に囚われてはなりません。とくに新しい問題を解決するためには、常識を疑うことが何よりも重要です。疑った結果、間違っているとわかれば否定する。否定できるだけの証拠がなければ、長く続いてきた伝統や習慣はそのまま大事にしておけばいい。」(p.416)

 コロナ禍でグローバリズムは衰退するのか、安楽死を認めるべきか、ネット言論は規制すべきか、・・・ 現在進行中の日本の課題をどう捉え、どう判断するか、自分の頭で考えることを促す。魚に水が見えないように、常識の中に囚われていることに気づかないことが多い。アメリカ留学では数々の荒波をかぶることになったが、言葉の壁は文化の違いや思考の違いであることを知り、見えないものを見ようとする心構えのようなものができた気がする(まだまだではあるが)。そうやって、アウェイの中で少数派であることに動じないアンカー(船の碇)を身につけていくのだ。

2022年2月27日日曜日

『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』

ブレイディみかこ

「「期末試験の最初の問題が、エンパシーとは何か、だった。」「で、お前、何て答えを書いたんだ?」「自分で誰かの靴を履いてみること、って書いた。」」(p.73)

 自分で誰かの靴を履いてみる(To put yourself in someone’s shoes)、これは、他人の立場に立ってみるという意味だそうだ。これを聞いて思い出すことが2つある。一つは長田弘さんの詩。「みるときには めをつぶる/めをあけても なにもみえない/あたまは じめんにくっつけて/あしで かんがえなくちゃいけない」 あたまでは解決できないことがあるのだ。もう一つは、高史明さんが「死にたい」という中学生にかけたことば。「まず手をひらいて相談しなきゃ。支えられている足の裏と相談してみなさい。」その子は数ヶ月後「足の裏の声が聞こえてくるまで歩くことにしました」と手紙を送ってきたという。いま自分の足がふみしめる大地でつながっている人がいるのだ。

2022年2月26日土曜日

『民主主義とは何か』

宇野重規

「政治において重要なのは、第一に、公共的な議論によって意志決定すること。第二に、決定されたことについて、市民は自発的に服従すべきこと。このような「政治」の成立を前提にして、初めて民主主義は実現します。」(p.50~p.51)

 民主主義の変遷は、平等な社会をつくるという理念の追求と、それを具体的な仕組みとして実現しようとする人々の行動の歴史である、と読み取る。「人々が地域的課題を自らの力で解決する意欲と能力をもつことが、民主主義の最大の可能性」とあるように、自分も社会の一員であり、社会を変えることができると信じることだろう。文部省著作の『民主主義』(1949)には次のような記述がある。「高い知性と、真実を愛する心と、発見された真実を守ろうとする意志と、正しい方針を責任をもって貫く実行力と、そういう人々の間のお互の尊敬と協力と ― りっぱな民主国家を建設する原動力はそこにある。そこにだけあって、それ以外にはない。」

2022年2月25日金曜日

『心はすべて数学である』

津田一郎

 「そもそも心とはいったい何なのか。科学者にもっとも広く支持されているのは、脳神経系の活動状態から心や意識が生まれてくる、心は自然現象だ、という考えです。・・・ 成長する過程において、お母さんやお父さんの話しかけや触れ合い、働きかけがあって脳神経系はどんどん発達していきます。脳は他者の心によって構築されているのではないか。」(p.50~p.53)

 心の動きのロジックを脳科学で解明しようとする。他者による心が入り込んで、私の脳をつくり「私の心」として表現されていくという話を、文字通り受けとめるのは難しい。人は他者によって自分を知り、他者によってその人らしさを身につけていく、とでも解釈しようか。もはや他者との境界線を引くことは難しく、ぼやけた領域にいる自分を、自分らしい「器」へと変形させていく。「器」であるがゆえに、やはりその中には誰かを受け容れ、包み込む役割をもっているともいえる。

2022年2月24日木曜日

『森を見る力』

橘川幸夫

「森を見る力は、現実の問題を無視して、遠くから高みの見物をすることではない。現実の問題を直視しながら、同時に遠い地点から現実を見る力である。感じる力と考える力のどちらにも偏重しない平衡感覚を持つ者を、大人と呼ぶ。」(p.20)

 同じ森を見るにしても、いまどこに立っているかによって、見え方も説明のしかたも緊張度合いも違ってくる。中島みゆきさんの曲に「闘う君の唄を、闘わない奴等が笑うだろう」という歌詞があるが、外側に立って人を評価する力はいらない。同じ森の中で汗を流す仲間たちと、森という溢れる自然への畏敬を感じとれる者でありたい。この本の中に「共生は、仏教用語で「ぐうしょう」と読む。これはお互いを刺激しあいながら生きるという意味である」との一文がある。人に生かされていると同時に、人を生かす役割をもっているということを、見過ごしてこなかったか。

2022年2月23日水曜日

『ふだん着の寺田寅彦』

池内了

 「子どもたちに少しでも病気の兆候があると、すぐに医者を呼んで、口うるさく医者の言うことを聞くよう説教している。ところが、自分が病気になった時、痛みを辛抱してなかなか医師の厄介にならず、研究室で喀血したり、倒れたりして漸く入院する始末である。・・・ 客観的に物事を見る訓練ができている科学者なら、自分の行動・行為がフェアでないと気付くはずだが、寅彦はこの点では科学者ではなく平凡な親であった。」(p,94~p.95)

 寺田寅彦さんを信奉する人は読まない方がよいかもしれない。家族の前ではちょっとわがままなお父さんという内幕をみたい人向け。寅彦さんはとんでもなくたくさんの随筆を残している。その中の一節、「頭の悪い人は、はじめから駄目にきまっているような試みを一生懸命につづけている。やっとそれが駄目と分かる頃には、しかし大抵何からしら駄目でないほかのものの糸口を取り上げている。科学の歴史はある意味では錯覚と失策の歴史である。」人間味溢れる、こういった言いまわしも私は好きだ。

2022年2月22日火曜日

『ヒトの壁』

養老孟司

「ヒトは適応性の高い生きもので、AI社会に適応してしまう可能性が高い。その意味でじつはAIがヒトに似てくるのではない。ヒトがAIに似てくるのである。社会がAI中心に動くということは、個人がAIのように動くことになる方向性を意味する。自分の意思のつもりが、じつは世の中に流されているだけ。」(p.91~p.92)

 「開戦はやむを得えなかったことで私の本意ではない」と昭和天皇がこたえように、IT化に遅れをとってはならないという思いだけで、その目的や影響を考えずに突き進むと同じ轍を踏むことになる、という警告であろう。しょうがなかった、そんなつもりじゃなかったと言い訳せずにすむよう、自分の意思を確かめる癖をつけよう。この本には、愛猫「まる」の話も出てくる。「猫なんて役に立つわけではなくて、迷惑をかけるだけの存在のはずだ。でも、だからこそ、あれでも生きているよ、いいんだよねと思える」とのくだりがある。役に立つか立たないか、損か得かばかりの社会でないことも、ちゃんと心に留めて。(2/22は「猫の日」だそうだ。)

2022年2月21日月曜日

『子どもはなぜ勉強しなくちゃいけないの』

おおたとしまさ編

「ほかの生物に比べて人間は圧倒的に子どもである期間が長いという特徴があります。そこから一つの仮説が見えてきます。あるときサルの中に、突然変異によりなかなか性的に成熟できない個体が現れました。一般的にいえば不利な条件を負っていることになります。しかしなぜかそういうサルが繁栄した。子ども時代に非常に重要な価値があったからだと考えられるわけです。つまり、遊びの時間が長いことが脳の発達を促した。そして、勉強も遊びの一部であるといえます。」福岡伸一(p.174~p.175)

 タイトルの問いに対して、8人の著名人が子どもに語りかける。福岡さんは、生物学的に子ども時代に価値があること、子どものときにしか感じられないセンス・オブ・ワンダーが本当の勉強に導いてくれることを話す。私は毎朝、福岡さんの「ドリトル先生ガラパゴスを救う」(朝日新聞に連載中)を読むのが楽しみで、少年のようにわくわくしている。そう、若い頃を懐かしむより、子どものように好奇心あふれる日々をすごそう(迷惑をかけない程度に)。大人になって子どもの頃の夢が叶うことがあるのだ、福岡さんのガラパゴスの旅(『生命海流』福岡伸一)のように。

2022年2月20日日曜日

『積読こそが完全な読書術である』

永田希

「返さなければならないメール、こなさなければならないタスク、観たいけどまだ観ていない映画、学びたい言語、興味のある学問の分野、そして、読みたいけれどまだ読んでいない本。それは、人類史上もっとも情報を「積む」人々が無数に発生しているということを意味しているのです。」(p.19)

 不完全な読書を前提にするしかない、と永田さんは語る。さまざまな情報を得て、醸成され、心が豊かになる一方で、もっともっと豊かになりたいと思う気持ちが、自分を追い立て、何も成長していない自分に失望したりする。読書に限らず、「不完全」であることを受け入れ、醸成のペースをちゃんと保つためには、敢えて「積む」という選択肢を選ぶことがあってもいいだろう。ミヒャエル・エンデが紹介していたインディアンの話を思い出した。「インディアンたちが、これまでの歩みが速すぎたからと、しばらく同じ場所を動こうとしなかった話」「水場の近くに住んだ方がよいのではと尋ねたら、そうしたら快適さという誘惑に負けることになると返された話」。いずれも、朝日新聞(1989.1.1)の記事。

2022年2月19日土曜日

『一刀斎、最後の戯言』『森毅の置き土産』

森毅(福井直秀編/池内紀編)

「よく勉強するとよい点でハゲマシ、さぼると悪い点でイマシメ、なんてことがいわれるが、これは「学校方言」だろう。ハゲマシとイマシメの正統的使用法は、失敗にがっかりするなとハゲマシ、成功にいい気になるなといましめるものである。どちらにしても、「たかが試験で」というのが、本来のはげましといましめである。」『学校とテスト』森毅(p.11)から

 森毅先生が亡くなられて10年以上がたつ。先生のことばは今も私に視野の狭さを気づかせてくれる。学生時代に先生の授業を受けたが、むしろ教師になってから受けた影響の方が強い。「雑木山」というコラムには、学校は杉山を目指してはならない、ウルシやイバラやマムシに注意しながらも、道を曲がるたびにおどろきとよろこびがあるところであってほしいと願われていた。私の心の拠り所でもあった。森先生のことばを大切に思う人がこのような本を出版された。そして、改めて先生の膨大な執筆の記録に驚く。

2022年2月18日金曜日

『サイエンス・ブック・トラベル』

山本貴光編

Peter Medawar著『Pluto's Republic』に関する吉成真由美の書評「科学的な思考とは何か?」から 
「「科学者は、自由に想像の翼を広げると同時に懐疑的であり、創造的であると同時に批判的でなければならないし、自由であると同時に非常に緻密な思考能力を持ち合わせていなければならない。」科学的思考を見分けるメダワーの視点はすがすがしいほど鮮明である。」(p.163)

 優れたサイエンスブックを紹介する科学者たちを掲載した本である。(このブログを孫引きされる場合、何世代引きになるのだろう。)『Pluto's Republic』は、プラトンの『Plato's Republic(国家)』をもじっている。過去の科学者(国家に属する人たち)の「科学的」とは言いがたい振る舞いを切り捨てることで、科学的な思考とは何かを明瞭にしていく。「仮説の形成と修正」の中で研ぎ澄まされていく人こそが科学者と呼ばれるのだろう。ただ、この『Pluto's Republic』はまだ日本語訳されていないそうだ。

2022年2月17日木曜日

『パラレルな知性』

鷲田清一

「本来、大学で学ぶということは、全体を見渡し、何が一番大事なのかという「価値の遠近法」を身につけることだったはずではないのか。それは、さまざまな事態に直面した際に、絶対に失ってはならないものと、あればいいというものと、端的になくてもいいものと、絶対にあってはならないものという四つを、即座に見分ける力をつけることである。」(p.275)

 右肩下がりの時代には、何をあきらめるべきかを考えることになる、それは社会がまともになっていくことでもある、と鷲田さんは語る。一番大切なもののために、これまで同じように大切にしてきたことをあきらめる、この決断はなかなか厳しい。でも、歳をとってできなくなってきたことに対して、執着しなくてよいのだよ、という労(いたわ)りのことばにもとれるのだ。つまりは、価値の遠近法というシャープなナイフを心の中にもちあわせておくことが肝要。

2022年2月16日水曜日

『学ぶよろこび』

梅原猛

「夢を見る人間には、心に大きな傷を持っている人が多いんですね。その心の傷が夢を見させている、そう思うんです。」(p.19)

 バイオリンはその胴の部分に傷のあるものの方がよく響くと聞いたことがある。これさえなければと、つい思ってしまうものだが、これがあるからより成長できる、高慢にならなくてすむと考える人がいる。この本の中で梅原さんは、西田幾多郎の著書を何度読み返してもよく解らず、解らないからいっそう深い魅力を感じて哲学の道を選んだと語っている。力がなくても、傷をもっていても、よくわからなくても、というのは、なにかを成し遂げるための動機やエネルギーになりうるのだ。

2022年2月15日火曜日

『21世紀の楕円幻想論』

平川克美

「真円的な思考は、楕円がもともと持っていたもう一つの焦点を隠蔽し、思考の外に追い出してしまいます。・・・ 解決がつかない複雑な問題を前にしたときに、とりあえずわたしたちがとり得る態度は、「泣く」「ためらう」「逡巡する」・・・ そして「やむを得ず引き受ける」こと以外にはないように思います。(p.208~p.217)

 テレビの報道に違和感を感じることが増えてきた。複雑な事件や事態のアウトサイドでその場だけのコメント、そして、それを聞いているだけの自分。楕円の異なる焦点を2つとも受けとめるというのは、自分の問題として関わり、自分の中で矛盾や葛藤を引き受けるということなのだろう。安全地帯で眺めているばかりでなく、同じような状況にある人に対して、自分ができることを考え、迷いながら行動するということ。自信がない、長続きしない無力感やうしろめたさのようなものを引きずりながらも。真円のようにスマートであろうとする自分よりも魅力的かもしれない。

2022年2月14日月曜日

『2020年6月30日にまたここで会おう』

瀧本哲史

「ブルームによれば、「教養の役割とは、他の見方・考え方があり得ることを示すことである」と。・・・ 学問や学びというのは、答を知ることではけっしてなくて、先人たちの思考や研究を通して、「新しい視点」を手に入れることです。」(p.30~p.31)

 『僕は君たちに武器を配りたい』など、若者たちに「未来を変えろ」との強いメッセージを投げ続けた瀧本さんが2019年に亡くなられた。視野や思考の枠組みを超えること、自分の才能に投資すること、そして具体的に行動を変えることを教えられた。私も、「わかった」という安心感よりも、「見方・考え方が深くなった」との実感を次につなげられる授業を目指したいと思う。「数学の歴史は考え方の歴史であり、既成概念から自由になる歴史でもある(上野健爾)」のだから。

2022年2月13日日曜日

『たちどまって考える』

ヤマザキマリ

「日本は鏡に映し出されたそのままの自分ではなく、他者が「あなたってこんな人」と象(かたど)った自分を自分自身だと思い込む傾向が強い社会だと感じています。コロナの出現によって、他者という鏡を失って戸惑う人もいるとは思いますが、ここらで自分自身の力で、自分というものを知ってみるのはどうでしょうか。映画や本や音楽は、自分で自分を知るための鏡としては最高の素材になります。」(p.122)

 「きょろきょろして、自分が自分であることに自信がなく、常に新しいものにキャッチアップしようと落ち着かない」ところが日本人のナショナル・アイデンティティとの論(『日本辺境論』内田樹)を思い出した。停滞することが悪いことのように感じ、たちどまって考えることが苦手なのは私だけではないと思うのだが、コロナ禍はいままでできなかったことを行動に起こすチャンスかもしれない。本を読み映画を見て、思考や感性を鍛える「自家発電」の時間を大切に、とのヤマザキさんからのメッセージ。

2022年2月12日土曜日

『たのしい知識』

高橋源一郎

「たいていのことを、ぼくたちはみんな知らない。ほんとうは知らないはずなのに、そのことに、ほとんど気づかない。・・・ そして、不完全と知ってはいても、その不十分な知識で、なにかについて語らなければならないときがある。」(p.16~p.17)

 コロナ時代をいち早く掴んだジョルダーノの話、かつての日常に戻ることがいいことなのかと逆インタビューする五味太郎の話など、「いま」を考える材料・視点を提供する。現在進行形の重大課題に対して自分の意見を発するにはためらいがある。特にリーダーたちの判断は周囲からの批判に晒される。そうでなくても、私は自分のことばを語ることを避けてきた。人前で話をするのが苦手な教師もいるのだ。でも、大好きな安野光雅さんですら「表現にはいつも恥ずかしさが伴う」と感じていることを知って、少し勇気をもらった。このブログを始めるきっかけである。

2022年2月11日金曜日

『数学する身体』

 森田真生

「古代ギリシアにおける数学は独白的であるよりも対話的で、それが目指すところは個人的な得心である以上に、命題が確かに成立するとの「公共的な承認」だったのだ。」(p.58)

 数学を対話的に学ぶと、物事をもっと深く見るようになると考えて、私も教材や授業の流れを工夫してきた(2019年の数学教育学会では「対話による探究活動を取り入れた数学授業の実践」の報告も)。上手いインタビュアのように、相手の意見に対して「嘘やん」「何で」「それからどうしたん」と続けざまに深掘りできる人が、相手の胸の内を引き出していく。授業では、自分では分かっていたつもりが相手に分かるように説明するのは難しかった、例をあげたり場合分けをしたり絵を描いたり工夫していくうちに自分の理解が深まった、説明することが楽しいことだと知った、といった生徒の声が聞かれた。ときには新しい疑問が湧いてきて「こんな場合どうする」と仲間を引きずり込むのだが、一緒に悩んでくれる友だちがいることが若者の特権。

2022年2月10日木曜日

『天才科学者はこう考える』

 ジョン・ブロックマン(編)

「人間は成功を自分のおかげだと思いたがる一方で、失敗は自分のせいだとは思いたがらない。・・・ 車を運転する人に尋ねると、10人中9人までが自分を平均より上のドライバーだと答える。」(p.68~p.70)

 バイアスによる偏重思考をしがちな自分を冷静に見つめ直す機会を与えてくれる科学者の研究が満載されている本。先日の「マシュマロテスト」の話も出てくる。「名前をつけるとわかった気になる」とか「温かいコーヒーカップを手に持っているときに知らない人を見ると第一印象がよくなる」とか、すべて実験結果に基づく現象なのだ。このような話を聞いても、自分は大丈夫と思った人、あるいは、納得したけど行動を変えない人は、たぶん9人のドライバーに含まれる。

2022年2月9日水曜日

『知ってるつもり 無知の科学』

スティーブン・スローマン
フィリップ・ファーンバック

「人間と他の動物との違いは個体の知力にあるのではない、とヴィゴツキーは主張した。他者や他の文化を通じて学習できること、そして協力できることこそが違いである、と。・・・ 知識のコミュニティにおいては、知識を自分が持っているか否かより、知識にアクセスできるか否かのほうが重要なのだ。」(p.130~p.140)

 自分は自分が思っているよりずっと無知であることを自覚し、他者に耳を傾け集団に貢献しようとする姿勢や能力を磨けと諭す本。最先端の科学には分からないことがいっぱいある。どんな問いをたて、どんな方法で解明すればよいか、仲間とともに考え行動していく力を身につけたい。探究型学習やSTEAM教育が求められる根本がここにある。「外から入手できる知識と頭の中にある知識を混同してしまう」危うさに注意するよう念押しされている。

2022年2月8日火曜日

『ファスト&スロー』

ダニエル・カーネマン

「心理学史できわめて有名な実験の一つに、マシュマロテストと呼ばれるものがある。4歳児の目の前にマシュマロ1個が入った皿を置き「いつでも食べてかまわない。でも食べずに15分我慢できたらもう一個あげる」と言って実験者は部屋を出る。・・・ 子供たちの約半数は15分待つ難行をやってのけるのだが、・・・ そして実験から10~15年後に、誘惑に勝った子供と負けた子供の違いが明らかになる。・・・ 4歳のときにセルフコントロールを示した子供たちは、知能テストで大幅に高い点数をとった。」(上巻p.88~p.89)

 さまざまな論文や実験をもとに、人の判断や行動の危うさを指摘する。直感と熟考のズレの具体的事例の数々は数学の教材としても秀逸である。実は、上記の話にはそのときの子供の様子も紹介されている。我慢できた子供たちの大半は、後ろを向いたり、数を数えたり、目を覆ったり、実にさまざまな誘惑から注意を逸らしていた、というのである。これは、私たち大人も見習うべきことだ。困難や誘惑事に頭をいっぱいにしたままじっと耐えるのでなく、注意力を別の方向に向けたり、全く違うことを始めたり、自分の中で場面転換を図ることができるかどうか。人からの批判をストレートに受けとめるばかりでなく、変化球を投げ返す能力もその一つといえるかもしれない。

2022年2月7日月曜日

『ベンチの足』

佐藤雅彦

 「私は、これまで、文章を書くときや番組を作る時には、できるだけみんなが分かるように解釈を伝えようと心がけてきた。・・・ 読者や鑑賞者が求めているのは「準備された説明」ではなく、それを自分で見つけたくなるほどの「妙(intrigued)」であったのである。」(p.266~p.267)

 数学を教えるのに「分かりやすく」がモットーであった私も、いつしか生徒を「混乱させる」方が力をつけることになると思うようになった。たとえば、確率を学ぶとき、初めに場合の数を数え上げるのはやめて、「赤3面、黄2面、青1面のサイコロ」を2個転がしたとき、(赤,赤)(赤,黄)(赤,青)(黄,黄)(黄,青)(青,青)のどの組が一番よく出ると思うか、と聞く。すると、(赤,赤)と答える生徒が多いので「じゃあ、やってみよう」ともっていく。予想通りにいかないことで、生徒自身が場合の数の数え上げを始める、という訳だ。

2022年2月6日日曜日

『わたしは「セロ弾きのゴーシュ」』

中村哲

 「日本では想像できぬ対立、異なる文化や風習、身の危険、時には日本側の無理解に遭遇し、幾度か現地を引き上げることを考えぬでもありませんでした。でも自分なきあと、目前のハンセン病患者や、旱魃にあえぐ人々はどうなるのか、という現実を突きつけられると、どうしても去ることが出来ないのです。・・・ 自分の強さではなく、気弱さによってこそ、現地事業が拡大継続しているというのが真相であります。・・・ 賢治の描くゴーシュは、欠点や美点、醜さや気高さを併せ持つ普通の人が、いかに与えられた時間を生き抜くか、示唆に富んでいます。遭遇する全ての状況が、天から人への問いかけである。それに対する応答の連続が、即ち私たちの人生そのものである。・・・」(p.224~p.225)

 この本は、2019年12月に亡くなられた中村哲さんの過去のインタビュー集である。目の前の現実に誠実に向き合い、天からの問いかけをしっかりと受けとめ、なすべきことをそのまま行動に移してこられた方であり、ゴーシュのように素直に生き、宮沢賢治のように人のためにすべてを捧げられた方であることに、改めて強い感銘を受ける。

2022年2月5日土曜日

『答えのない世界を生きる』

小坂井敏晶

「異文化からもたらされる知識は、加算的に作用して既存の世界観を豊かにするのではない。新しい知識を加えるのではなく、いまある価値体系を崩す。これこそが留学の目的だ。」(p.40)

 1年間アメリカの大学で学び日本人学校で教えるという経験をした。これまでの自分の経験値が通用しない、自分の価値がどこにあるのか分からない、それでも自分の拠り所を求めてもがき続ける、・・・ 私の場合、こういった挫折や葛藤を経ることではじめて自分という器を変形できたと思う。「英語という外国語を学ぶことは、未知と向き合い異質性と格闘することだ」という鳥飼玖美子さんのことばにも共感する。グローバルリーダーというのは、挫折や葛藤に向き合う人の不安や傷みをしっかりと受けとめて支援できる人のことなのだろう。

2022年2月4日金曜日

『コロナ後の世界』

内田樹

 「なぜ、だれも読まない本を本棚に並べるというような「無駄なこと」をひとはするのだろうか。・・・ 壁を埋め尽くす書棚がその部屋の主人に、おのれの無知と経験の狭さを思い知らせるための装置であったというのはありそうなことである。」(p.232~p.233)

 この本では「反知性的」について、知的能力は高いがその人のせいで集団の知的パフォーマンスを下げてしまうような人物のことであると語られる。集団の中でも柔軟に自分の知識や考えをバージョンアップできること、相互啓発が新たな変化を生みだしていくことを願うこと、そんな行動こそが「知性的」なのだろう。ベテランの先生も、生徒に間違いを指摘されて「よく気づいたね」と褒める余裕がないといけない。書棚とも仲良くつきあいながら。

2022年2月3日木曜日

『うしろめたさの人類学』

松村圭一郎

「いろんな理由をつけて不均衡を正当化していることに自覚的になること。ぼくらのなかの「うしろめたさ」を起動しやすい状態にすること。・・・それまで覆い隠されていた不均衡を目のあたりにすると、ぼくらのなかで、なにかが変わる。その変化が世界を動かしていく。」(p.174~p.175)

 私もまた、困っている人を見て見ぬ振りをし、時間がないから継続できないからみんなもやってないからと言い訳をし、国や社会が対策すべき事柄だからと目をつむる。人に迷惑をかけず人と関わることの煩わしさを避けることがスマートな生き方と思ってこなかっただろうか。でも、躓きや摩擦や恥ずかしさを乗り越えないと心は通じ合わない。たぶんスマートな先生やスマートな親は存在しない。伝えたいことは伝わらず、それでも伝え続けると、思い以上のことが伝わったりする。伝えるという場面においても、人の傷みや困窮に気づいて、私に何ができるだろうと考えるところから始まるのだと思う。